●昔、東京のそば屋で「もり」を頼んだら、
丸いざるせいろに、海苔がのった、
「ざる」が出た来た。
「おばちゃん、『もり』を頼んだんだよ。」
というと、
「ああ、ごめんごめん、
間違えちゃった。
海苔はサービスしとくからね。」
しめしめ、「もり」の料金で「ざる」が喰えるぞ。
わずか、数十円の違いだけれどね。
でも、
「もり」と「ざる」の違いは、海苔が載っているだけなの?
●東京周辺の、昔ながらのそば屋さんでは、
メニューに「もり」と「ざる」が並んでいる。
「もり」を頼むと、
四角いせいろに盛られたそばが、
平らに広げられて出てくる。
「ざる」を頼むと、
丸いせいろに盛られたそばのまん中に、
細切りにされた海苔が載ってでてくる。
わざわざ器まで替えているけれど、
多くのそば屋さんでは、
ただ、海苔が載っているだけの違いだ。
でも、でも、
さすが、老舗といわれるそば屋さんは違う。
「もり」と区別するために、
「ざる」では、ぐっとコクのある汁を使っているそうだ。
みりんを多く使った「御膳かえし」から、
「ざる」専用の汁を作っているのだ。
海苔も、すっと溶ける「花巻き」に使うのとは、
別のしっかりとしたものを使っている。
本来はそういうものだったらしいが、
それを受けついでいるのは、ごくわずかのお店。
ほとんどの店では、
ただ、「もり」に海苔をかけて、
「ざる」と呼んでいるようだ。
●そもそも、この「もり」という呼び方は、
どうして出来たのだろう。
江戸時代半ば、
片手で立って喰えるということで、
丼にそばを入れて汁をかけた、
「ぶっかけ」が流行った。
最初は冷たいそばだったが、
そのうちに、暖かいそばに使われるようになり、
いまでも「かけ」の名で残っているんだね。
その「ぶっかけ」に対して、
そば汁につけて食べるそばを「もり」と呼んだそうだ。
文字どおり「高く盛り上げるから、もり」なのだそうだ。
さて「ざる」のほうはというと、
やはり江戸時代中頃、
深川にあった「伊勢屋」で、
当時の主流であったせいろや皿に盛るのではなく、
編んだ竹のざるを使ってそばを出し、
「ざる」と呼んだのが始まりなのだそうだ。
もちろん海苔は載っていなかった。
値段は高かったが、
かなり質のよいそばを出したようだ。
つまり「ざる」は「もり」より、
高級なイメージがあったんだね。
今のように、
海苔をかけるスタイルが定着したのは、
明治になってからのことらしい。
ざるに盛ったから「ざる」ということではなく、
いわゆる種物の一つとして、
認められて来たのだね。
だから、海苔のかかったそばを、
「ざる」と呼ばず「海苔そば」としている店もある。
●さて、信州そばの本場、戸隠。
ここには多くのそば屋さんが並んでいる。
どのそば屋さんに行っても、
お品書きの最初に書かれているのが「ざるそば」。
あれ、「もり」はないのかな。
「すみません、
海苔のかかっていない『ざる』をください。」
東京辺りから来られるお客さまの中には、
こんなことを言う方もいらっしゃる。
ここ戸隠では、「ざる」といっても、
海苔はかかっていない。
名産のネマガリダケで作った、
丈夫なざるの上に、
ひとつかみづつ丸めた、
ぼっち盛りで出すのがここの流儀。
地元の人に言わせれば、
「ざるに盛ってあるから、『ざる』じゃないか。
何がおかしいんだ、えっ?」
とのこと。
「かんだた」のある、長野市街では、
東京風のそば屋と、戸隠風のそば屋が混在している。
だから、ただ、「ざる」と頼むと、
店によって、海苔が載ってきたり載らなかったりする。
紛らわしいなあ。
「かんだた」では、「もり」のことを、
ただ「手打ち」と呼んでいる。
時々、メニューも見ずに
「ざる、大もり」と頼む方がいるけれど、
「手打ち」こと、せいろそばをお出しする。
「もり」と「ざる」。
簡単な言葉なのに、
人によって、地域によって、
その響き具合が違うのだあ。
ああ、複雑な世の中よ。
でも、だから、楽しいのだよね。