●さて、これは、人から聞いた話。
ある老舗のお菓子屋さんが、
お客さまに配るための、
パンフレットを作ったそうだ。
その、老舗の得意とするのは、
練りきりという生菓子。
きれいな形に仕上げるためには、
熟練と技が必要だ。
そこで、職人さんが、
手でそのお菓子を作っているところを、
きれいな写真に撮って、
パンフレットの表紙にした。
うん、いいパンフレットができた、
これなら、お客さまに喜んでいただき、
店のイメージアップになることだろう。
そうお菓子屋さんは考えた。
そうして、
その自慢のパンフレットを配りはじめたのだった。
ところが、暫くして、
こんな電話があった。
「パンフレットを見ると、
おたくのお菓子は、素手で作られているんだね。
ちょっと、食べる気がしなくなった。」
あれれ、ずいぶん神経質な方がいらっしゃるのだな、
と、お店の人は最初は思ったそうだ。
ところが、そういう電話が、
それからも、度々あったのだ。
練りきりの繊細な形は、
熟練した職人さんの、微妙な手の動きによって、作られる。
それは、素手でしかできない芸術品のようなものだ。
とても、手袋をした手や道具では作れない。
そういう手作りの大切さを伝えたかったから、
パンフレットに、手の写真をのせたのだ。
なのに、それを嫌がる人もいる。
お菓子屋さんは、ずいぶん悩んだ末、
そのパンフレットを配るのをやめたそうだ。
●弁当工場や給食施設、食品工場などでは、
マスクをし、頭巾をかぶり、
ビニールの手袋をして作業しているところが、
写真などで紹介されたりしている。
そう、そういう場所では、
衛生に細心の注意を払っている。
だから、殺菌された手袋を使うのだね。
そういうのを見ているから、
手袋をしていた方が衛生的で、
素手で食品を扱うのは、
不衛生だと考える人もいるのだろう。
でも、その手袋って、
どうやって身につけるのだろうか。
やっぱり、一度は素手で触らないと、
着けられないよね。
手袋をした、ほかの人にはめてもらえばいいけれど、
今度は、その人は、どうやって、、、、
なんて、考え出すと、
眠れなくなってしまう。
●飲食店なんぞ、
食品を素手で扱わなければならないところは、
たくさんある。
例えば寿司屋。
手袋をした手でシャリを握り、
「へい、大とろお待ち!」
なんて出されたら、どんな気分だろうか。
(お客さまの話では、
実際にそういう店があるらしい。)
そば屋だってそうだ。
手袋をして、そばを打つことはできないし、
茹でたり、洗ったり、
それを盛ったりするのは、どうしても素手になる。
何しろ、お客さまが口にするものを、
素手で触るのだから、
そば屋というのは、よっぽどの覚悟が必要だ、、、
なんて、いまさら。
●実は、「そばを手で捏ねてはいけない」、
という時代があった。
戦後のしばらくの間、
食べ物を素手でこねて作るなどとはけしからん、
と、お役人が言い出して、
製麺機の設備のない店には営業許可が降りなかった。
当時の衛生状態を考えると、
それも仕方がなかったのかもしれない。
今でも、飲食店では、
手洗いの設備や方法について、
うるさく指導される。
いわく、30秒以上流水にさらしながら、
手を洗うようにとのこと。
この30秒という時間は結構長い。
普通の人が手を洗えば、
せいぜい、5秒程度。
ある人の話では、
30秒というのは、
「ハッピーバースデー」の歌を、
二回歌うぐらいなのだそうだ。
●うどんなどでは、
ゆでた後に、シャワー洗浄し、
箸などを使って盛ることができる。
でも、細く切れやすいそばはそうもいかない。
少しづつ、つまんで盛り込まないと、
水も切れないし、そばが絡んで食べにくくなってしまう。
箸を使っていたら、
お客さまの席に着く頃には、
すっかり延びてしまうだろうなあ。
しかしながら、
お客さまの厳しい目。
やがて、手袋をしてそばを盛る日が、
やってくるのかもしれない。
そんな日が来ないように、
しっかりと、手を洗おう。
ハッピーバースデー、ツーユー〜〜〜〜。
2016年09月
「ノビる」そばと「ノビない」体力
●食べ物とは関連のない勤めをしていた若い頃、
仕事場で、よく、そばの出前を頼んだ。
まとまった食事時間の取れない不規則な仕事。
そばならば、さっと、食べられて、
お腹に重たくなく、
すぐに動けるので、重宝していた。
しばらくしたら、近所に別のそば屋ができた。
食べに行ってみると、
こちらの方がはるかにおいしい。
出前もしてくれるというので頼んでみた。
そうして食べようと思って、
箸でつまむと、
あらら、そば全体が持ち上がってしまう。
そばがみんな、くっついているのだ。
なんとかほぐして食べるけれど、
すっかり、歯ごたえがなくなっている。
完全にノビきっているのだ。
うんちく好きの上司のいうことには、
「いいそばほど、ノビやすい。」
のだそうだ。
結局、出前には元のそば屋、
食べに行くのなら、新しいそば屋、
ということで、役割分担が決まった。
●そばは、時間が経つと、
すぐにノビてしまう。
漢字で書けば「伸びる」とも、
「延びる」とも使うそうだ。
別に、物差しで測って、
長さが変わるわけではない。
しゃきっとした、歯切れのいい、
そば独特の食感が失われることだ。
茹で上がったそばは、
洗われて、せいろなどに盛って、
すっと、水が引いた瞬間が、
一番おいしいといわれている。
だから、そば屋で酒なんぞ飲んでぐずぐずしていると、
「ほらほら、そばがノビてしまいますよ。」
と、女将さんに促されたりする。
老舗のそば屋さんの中には、
「大盛りはありません。
盛りの量が多いと、
食べているうちにそばがノビてしまいますから。」
と、言われるところもある。
大人数の宴会などで、
「そばは無礼講」などと呼ばれるのは、
みんなに行き渡るまで待っていたら、
そばがノビてしまうから。
たとえ、下っ端だろうが、小間使いだろうが、
茹でて出された順に食べるのが、
あたりきしゃりき!
部長、専務、社長、大臣、ヒラ、
この際、肩書きは関係ないのだ。
●さて、そばがノビているって、
どんな状態なのだろう。
はっきり分かるのは、
盛られたそばがくっついてしまうこと。
そうして、ぐにゃっという食感になってしまうこと。
なんで、こうなるの?
何でも、そば粉には、
水溶性のタンパク質が多く含まれ、
それが、茹でられた後に溶け出して、
、、、うんぬん。
つまり、そば粉の割合の多いそばほど、
ゆでた後にノビやすいようだ。
上司が言っていた、
「いいそばほど、ノビやすい。」
というのは確かなことのようだ。
だから、そば粉の割合の多かった新しいそば屋は、
出前には向かなかったのだね。
●でも、どこでも、好きな時に、
そばを食べたい、
というのも、一つのニーズ。
ましてや、食べ物屋の少なかった昔は、
そば屋の出前は重宝した。
ある時、そば屋の厨房を覗いたら、
出前用のそばを盛る前に、
懸命にうちわで扇いでいた。
水気を飛ばすことによって、
少しでもノビるのを、
延ばそうとしていたのだねえ。
お客さまの話では、
あるコンビニで売られているざるそばには、
「ほぐし水」というのが付いているそうだ。
プラスチックのパックに盛られたそばは、
全く、ノビた状態で、固まっているけれど、
その水をかけると、あら不思議、
パッと、そばがほぐれて、
おいしく食べられるそうだ。
●そばはノビる前に食べるに限る。
だから、そばが来たら、
一気に、たぐり込むように食べるのが、
そば通の常識、、、、
と思いきや、
中には、ノビたほうが好きだという方もいらっしゃる。
そばをお出しても、しばらくそのままにして、
おかれるのだ。
その方のおっしゃるには、
店によってノビ方が違うので、
そこを見極めるのが難しいとか。
また、最近は、
一枚のそばを、
20分ぐらいかけて、
すこしづつ召し上がる方もいらっしゃる。
まるで、そばのノビていくのを、楽しんでおられるようだ。
それでも、
ノビのない、
しゃきっとしたそばをお出しするのが、
そば屋のつとめ。
タイミング良く茹で、よく洗い、
丁寧に水を切る。
そうして、どんなに忙しくとも、
ノビない体力をつけておくのも、
そば屋の仕事のうち、、、なんだなあ。
白い飯ばかり食べていると、、、、
●江戸時代は終わり頃、下町の一角に、
居を構えている大工の棟梁。
たくさんの若い衆を抱え、
あっちのお店、こっちの現場へと忙しい。
ところが、その若い衆の中でも、
一番の働きをしていた熊五郎が、
俄に床についてしまった。
棟梁は心配して、他の者に尋ねる。
「おい、猫八、熊五郎の具合はどうなんだ。」
「へい、それが、なんでも、脚に力が入らなくて、
起き上がることが出来ねえっていうんですよ。」
棟梁は若い衆の顔を見回しながら、
しみじみと言う。
「俺はなあ、若いときに食べるものに苦労をしたから、
せめて、お前たちには、
白い飯をたっぷりと食わせてやりたいと思っている。
それが、一番飯を食っていた熊五郎がこのざまだ。
それにひきかえ、猫八、お前らは飯もろくに食わずに、
そばばっかり食べにいっているだろう。」
頭を掻きながら答える猫八。
「へい、ご存知でしたか。
そりゃあ、白い飯もおいしいんですが、
なにしろ、あっしは、大のそば好きだもんで。」
さて、起き上がれなくなった熊五郎、
医者の見立てでは「江戸患い(わずらい)」というものらしい。
なんでも、江戸を離れると、回復することがあるという。
そこで棟梁は、百姓をしている田舎の親類に、
熊五郎を預かってもらうことにした。
大八車に乗せられ、猫八たちに引っ張られて、
熊五郎は江戸を去ったのだった。
さてさて、一年もたった頃、
元気になった熊五郎がかえってきた。
「いやあ、田舎はひどいよ。
何しろ食べるものといえば、麦や豆ばかりなんだ。
また、ここで、白い飯を食べて、
ばりばりと働くぞ。」
棟梁も、猫八も、ほかの若い衆も、
熊五郎が元のように元気になったので、
大いに喜んだのだ。
が、しかし、、、、。
●私の若い頃には、小学校の身体検査の時、
ゴム製のハンマーで、膝の頭を叩かれた。
そう、ある程度御年配の方なら、
ご存知だろう。
えっ、何のことかって。
ハンマーで叩いて、脚がピクッと反応すればOK。
反応がないと、脚気(かっけ)の疑いがあるとされた。
脚気は、ご存知のようにビタミンB1の欠乏症。
いわば、栄養失調なのだが、戦前までは、
結核と並ぶ国民病で、亡くなる人も多かった。
これは、白米ばかりを食べることによって、
玄米で補われていたビタミンが摂られなくなったため。
江戸時代の中頃までは、
殿様や武士たちのかかる病気だったが、
白米食が庶民の間でも行われるようになって、
底辺が広がった。
特に、江戸の住民の間ではやったので、
「江戸患い」と呼ばれたのだ。
大工の熊五郎も、
白米ばかりを食べていたために、
「脚気」にかかったのだね。
●この「脚気」による被害が大きかったのが、
明治時代の陸軍だった。
日清、日露の両戦争で、
「脚気」に倒れた兵士の数の多いこと。
これは、強い体を作るため、という目的で、
白米中心の食事を、陸軍が進めたため。
日露戦争での戦死者は4万7千人。
ところが、約25万人が脚気を患い、
亡くなったのは2万8千人。
一方の海軍では、麦飯を導入したため、
ほとんど脚気患者を出さなかったといわれている。
当時はまだ、細菌によって脚気が起こると、
信じられていたのだねえ。
明治の終わり頃にビタミンが発見されて、
脚気は、ビタミンB1の欠乏症だということがわかっても、
その撲滅までには、長い時間がかかったのだねえ。
そお、私の子供時代までね。
●脚気を予防するには、ビタミンB1を含む食品を食べるといい。
多く含まれるのは、玄米、豚肉、うなぎ、大豆、ごま、ピーナッツなど。
それに、麦やそばにも含まれている。
すでに、江戸時代には、脚気患者にそばを食べさせると、
回復するということを、漢方医たちは知っていた。
でも、明治維新で、西洋に目を向けてしまった政府は、
それまでの漢方を、すべて否定してしまったのだね。
さて、棟梁のところで働いていた熊五郎。
白いご飯ばかり、おいしい、おいしいと言って食べていたから、
脚気になってしまった。
それが、田舎へ行って、
豆や麦などのビタミンB1を含む食べ物を食べたから、
元気になって、帰ってきた。
でも、また、白いご飯ばかり食べていて、
大丈夫なのだろうか?
いいえ、
同僚の猫八が、熊五郎をそば屋に誘ったら、
この熊五郎、すっかりそば好きになってしまった。
そうして、棟梁の元で、ずっと元気に働いたのだった。
江戸時代に広まった「そば」。
そのおかげで「脚気」にかからずに済んだ人たちが、
結構いたのではないだろうか。
そのように、私は勝手に想像している。
えっ、脚気って、昔の病気かと思っていたら、
今の人でも、かかる人がいるって?
コンビニのおにぎりや、お菓子だけを食べていたり、
お酒ばかり飲んでいるあなた、危ない危ない。
そばをズズッと手繰って、
元気に過ごそう。
耳の痛いそば屋の「いろはかるた」
●ある「いろはかるた」の文句から、
ーい 勢いをつけよお客の迎え声
ーろ 緑青(ろくしょう)に気付け銅鍋、銅しゃもじ
ーは 繁盛の木に油断の虫が喰い。
そっ、そんなこと言われたって!
あのぉ「緑青(ろくしょう)」ってなあに?
これはいったい、
何の「いろはかるた」なのだろうか。
ものの本によると、
何でもそば屋を営んでいた、長野の岡本さんが、
昭和8年に作った「かるた」なのだそうだ。
そば屋の宣伝として、
刷り物にして広く配布したという。
昭和8年といえば、
先頃亡くなった、三遊亭円楽の生まれた年。
ドイツでは、ヒトラーが政権を取り、
日本は国際連盟を脱退した年。
今から、七十年以上前に作られた、
そば屋のかるた。
これがねえ、今でも耳に痛い、、、
のだ。
●その当時といえども、
やはり、店の衛生、清潔が大切。
常に、整頓と、道具の整備を怠らないこと。
ーち 散らかった、店にお客は寄り付かず
ーれ 料理場にさびた包丁、赤い恥
なるほどねえ、最近はさびない包丁もあるけれど、
やっぱり、手入れは必要。
最初の「緑青」は、銅製品に出来る青緑色の錆。
昔は、鍋やおろし金、ひしゃくなどに、
銅がよく使われた。
手入れをしないで、水に濡れたままにしておくと、
すぐに、青い色が浮いて来て、
さぼっているのがわかってしまう。
●そば屋というのも商売。
お金に対する考え方も大切。
ーし 仕入れものすべて現金、借りぬよう
うう〜ん、これは大事なことだ。
そば屋は日銭商売。
下手に、つけを溜めてしまうと後が大変。
ーり 流行は着物にきずに店にかけ
たとえ儲かったとしても、
贅沢をしてはいけない、という戒め。
ーひ 控えめに費(つか)わぬ財布足を出し
商売が大きくなってくると、
つい、気も大きくなって散財しがち。
ぐっと引き締めなければ。
●さて、そばの味も大切。
ーほ ほめられて気をゆるめるな塩加減
そう、ほめられたからって、
いい気になってはいけない。
ーて ていねいは下手も上手の仕事をし
まずは一つ一つ、
丁寧な仕事をすることが、
お客様に喜ばれる秘訣なんだねえ。
ーみ 磨け腕、自慢は道の逆戻り
商売に慣れてくると、自分のやり方に、
いや、自分のやり易いやり方に傾いていきがち。
腕自慢に満足しては、時代に取り残されてしまう。
ーの のびたそば売る店だんだん縮こまり
そりゃあ、そうだろうねえ。
ーね 値で売るな味と仕事と品で売れ
ほらほら、耳に痛い。
クーポン券や値引きで人を集めたって一時的なもの。
やはり、そばの味で評判にならなければ。
それに「品」とあるところが、ちょっと憎い。
●商売は、昔も今も、
お客様に喜ばれてこそ、
成り立っていくもの。
ーに ニコニコの店に閑(ひま)なし客の山
ぶっきらぼうの店よりも、
笑顔でそばを出された方が、
気分がいいもの。
これがねえ、わかっていても、
続けられない店が多いのだ。
ーゆ 有名になるほど店の腰低く
うちは有名じゃないから、
腰が高くてもいい、、、、わけがない。
ーお おいしさも、まずさも一つは店気分
料理の味の感じ方も、
店の雰囲気や接客によって左右される。
目のつかぬところにも気を使い、
お客様をもてなす気持ちを店が持たなければ、
どんなにおいしいそばを出したところで、
おいしく感じなくなってしまう。
●この昭和の初めの頃の、
そば屋の作った「かるた」を読んでみると、
今も昔も変わらない、商売の姿が見えてくる。
当時の商売も、厳しいものがあったのだろう。
ここに書かれたことは、
今でも充分に通じること。
そば屋という生業を続けていくには、
常に、こうして自らを戒め、
注意を呼び起こしていかなければ。
特に、こんな言葉はね。
ーゐ 居眠りは不体裁ぞや店の番
居眠りをしたいほど閑なときも、
時々あるもので、、、。
「運そば」は博多の街から
●またまた、昔々の物語。
今回は、「年越しそば」の縁起にまつわるエピソード。
へえ、博多では、「年越しそば」のことを、
「運そば」とか「福そば」とか呼ぶんだね。
さて、今からおよそ800年近く前のこと、
というと、鎌倉時代半ばの頃のお話。
その年、九州は博多の街は、
疫病が流行り、恐ろしいほどの不景気に落ち込んだ。
もう正月だと言うのに、人々は食べるものもない有り様。
これでは、新しい年への希望など持てそうもない。
いよいよ明日は新年を迎えると言う日に、人々の間を、
「承天寺(しょうてんじ)にお出で、承天寺にお出で。」
と触れ回るものがある。
さて、食べるに困った人たちが、
何事かと承天寺に駆けつけたところ、
山と積まれた袋の中から、
白っぽい粉を掬いだして分け与えてくれている。
「これは、いったい何なんだい。」
「食べるものらしいけれど、どうやって喰うんだ。」
と戸惑う人たち。
そこで、姿を現したのが、
地元の豪商、謝太郎国昭(しゃたろうくにあき)。
「皆さん、これは世直しそばです。
お湯と塩を入れて、かき回して召し上がれ。」
さて、その頃は、まだ、
今のような「そば切り」は食べられていなかった。
だから、掻餅(かいもち)、つまり「そばがき」にして食べたのだね。
人々は謝太郎国昭に感謝して引き上げたそうだ。
●明けて正月、不景気だった博多の港に、
中国からの船が入って来た。
それも三艘も。
街はにわかに活気づき、
昔のにぎわいを一気に取り戻した。
喜びに沸く博多の街では、
誰それとなく、こんなことを言うようになった。
「世直しそばじゃ。
謝太郎の掻餅じゃ。
縁起直しの運そばじゃ。」
こうして、博多の人たちは、
謝太郎の業績を称え、
大晦日には、必ずそばを食べるようになった。
それを食べることによって「運」が開ける、
「運そば」としてね。
だから、博多では、「年越しそば」のことを、
「運そば」とか「福そば」とか呼ぶんだね。
これが全国に広まって、
「年越しそば」となったのだ、、、
というのが、数多くある、
「年越しそば」の縁起の一つだ。
●そばを振る舞った謝太郎国昭は、
元は中国の人だったが、
日本に帰化して、貿易を営み、
博多で一二を争う大金持ちとなった。
そしてこの人は、宗に留学して帰って来た、
円爾(えんに)こと、聖一国師(しょういちこくし)を援助し、
この承天寺を建てたのだ。
聖一国師は、最初に「国師」という称号を与えられた、
高名な禅僧。
当時の天皇や、鎌倉幕府の北条家など、
多くの人が、この人に帰依をしている。
さて、中国で修行した聖一国師は、
様々なものを持ち帰って、日本に伝えた。
その中でも有名なのが「饅頭(まんじゅう)」。
米麹を使った酒饅頭の作り方を伝えたらしい。
甘党のお坊さんだったのだろうか。
そうして、甘いものを食べれば欲しくなるのが、
「お茶」。
そのお茶も、この聖一国師が伝えたものと言われている。
故郷の静岡に蒔いた種が、やがて、その地に合うように育ち、
今の静岡茶の元になったのだと言う。
●また、この人は、
「うどん、そば」を日本に伝えたとされている。
要するに、「麺」という食べ物を伝えたようだ。
だから、承天寺には「饂飩蕎麦発祥之碑」が建てられている。
実際には、
「そば切り」が世の中に普及するのは、
ずっと後のことだから、
まず粉を作る技術が伝わったのかもしれない。
粉を作れたから、
大晦日に、そばを振る舞うことが出来たのだねえ。
とにかく、その偉〜いお坊さんである聖一国師をあがめ、
承天寺というお寺をつくったのが、
中国の人であった謝太郎国昭。
そうして、不況の中で、
食べ物もなかった人たちに、
当時は珍しかったそばの粉を配り、
「掻餅」として振る舞ったのだ。
たとえ、博多の大金持ちだとしても、
それだけのことをする「太っ腹」。
800年後まで、その話が伝わるという「豪気」。
すごい人がいたものだ。
●そんないわれはともかくとして、
大晦日に「年越しそば」を食べる習慣は、
全国に広まっているみたいだ。
そばを食べて、
「運」が向く、なんていい話。
このメールマガジンを、
最後まで呼んでいただいた皆様に、
ぜひ、いい「運」がやってきますように。
良いお年を!
あっ、そばを食べるのを、
お忘れにならないように、、、。