2016年09月

「ハッピーバースデー」を歌って手洗い

●さて、これは、人から聞いた話。

ある老舗のお菓子屋さんが、
お客さまに配るための、
パンフレットを作ったそうだ。
その、老舗の得意とするのは、
練りきりという生菓子。
きれいな形に仕上げるためには、
熟練と技が必要だ。

そこで、職人さんが、
手でそのお菓子を作っているところを、
きれいな写真に撮って、
パンフレットの表紙にした。

うん、いいパンフレットができた、
これなら、お客さまに喜んでいただき、
店のイメージアップになることだろう。
そうお菓子屋さんは考えた。
そうして、
その自慢のパンフレットを配りはじめたのだった。

ところが、暫くして、
こんな電話があった。
「パンフレットを見ると、
 おたくのお菓子は、素手で作られているんだね。
 ちょっと、食べる気がしなくなった。」

あれれ、ずいぶん神経質な方がいらっしゃるのだな、
と、お店の人は最初は思ったそうだ。
ところが、そういう電話が、
それからも、度々あったのだ。

練りきりの繊細な形は、
熟練した職人さんの、微妙な手の動きによって、作られる。
それは、素手でしかできない芸術品のようなものだ。
とても、手袋をした手や道具では作れない。

そういう手作りの大切さを伝えたかったから、
パンフレットに、手の写真をのせたのだ。

なのに、それを嫌がる人もいる。

お菓子屋さんは、ずいぶん悩んだ末、
そのパンフレットを配るのをやめたそうだ。

●弁当工場や給食施設、食品工場などでは、
マスクをし、頭巾をかぶり、
ビニールの手袋をして作業しているところが、
写真などで紹介されたりしている。

そう、そういう場所では、
衛生に細心の注意を払っている。
だから、殺菌された手袋を使うのだね。

そういうのを見ているから、
手袋をしていた方が衛生的で、
素手で食品を扱うのは、
不衛生だと考える人もいるのだろう。

でも、その手袋って、
どうやって身につけるのだろうか。
やっぱり、一度は素手で触らないと、
着けられないよね。
手袋をした、ほかの人にはめてもらえばいいけれど、
今度は、その人は、どうやって、、、、
なんて、考え出すと、
眠れなくなってしまう。

●飲食店なんぞ、
食品を素手で扱わなければならないところは、
たくさんある。

例えば寿司屋。
手袋をした手でシャリを握り、
「へい、大とろお待ち!」
なんて出されたら、どんな気分だろうか。
(お客さまの話では、
 実際にそういう店があるらしい。)

そば屋だってそうだ。
手袋をして、そばを打つことはできないし、
茹でたり、洗ったり、
それを盛ったりするのは、どうしても素手になる。

何しろ、お客さまが口にするものを、
素手で触るのだから、
そば屋というのは、よっぽどの覚悟が必要だ、、、
なんて、いまさら。

●実は、「そばを手で捏ねてはいけない」、
という時代があった。
戦後のしばらくの間、
食べ物を素手でこねて作るなどとはけしからん、
と、お役人が言い出して、
製麺機の設備のない店には営業許可が降りなかった。
当時の衛生状態を考えると、
それも仕方がなかったのかもしれない。

今でも、飲食店では、
手洗いの設備や方法について、
うるさく指導される。
いわく、30秒以上流水にさらしながら、
手を洗うようにとのこと。

この30秒という時間は結構長い。
普通の人が手を洗えば、
せいぜい、5秒程度。
ある人の話では、
30秒というのは、
「ハッピーバースデー」の歌を、
二回歌うぐらいなのだそうだ。

●うどんなどでは、
ゆでた後に、シャワー洗浄し、
箸などを使って盛ることができる。

でも、細く切れやすいそばはそうもいかない。
少しづつ、つまんで盛り込まないと、
水も切れないし、そばが絡んで食べにくくなってしまう。
箸を使っていたら、
お客さまの席に着く頃には、
すっかり延びてしまうだろうなあ。

しかしながら、
お客さまの厳しい目。
やがて、手袋をしてそばを盛る日が、
やってくるのかもしれない。

そんな日が来ないように、
しっかりと、手を洗おう。
ハッピーバースデー、ツーユー〜〜〜〜。


「ノビる」そばと「ノビない」体力

 ●食べ物とは関連のない勤めをしていた若い頃、
 仕事場で、よく、そばの出前を頼んだ。
 まとまった食事時間の取れない不規則な仕事。
 そばならば、さっと、食べられて、
 お腹に重たくなく、
 すぐに動けるので、重宝していた。

 しばらくしたら、近所に別のそば屋ができた。
 食べに行ってみると、
 こちらの方がはるかにおいしい。
 出前もしてくれるというので頼んでみた。
 そうして食べようと思って、
 箸でつまむと、
 あらら、そば全体が持ち上がってしまう。
 そばがみんな、くっついているのだ。

 なんとかほぐして食べるけれど、
 すっかり、歯ごたえがなくなっている。
 完全にノビきっているのだ。

 うんちく好きの上司のいうことには、
 「いいそばほど、ノビやすい。」
 のだそうだ。

 結局、出前には元のそば屋、
 食べに行くのなら、新しいそば屋、
 ということで、役割分担が決まった。

●そばは、時間が経つと、
 すぐにノビてしまう。

 漢字で書けば「伸びる」とも、
 「延びる」とも使うそうだ。

 別に、物差しで測って、
 長さが変わるわけではない。
 しゃきっとした、歯切れのいい、
 そば独特の食感が失われることだ。

 茹で上がったそばは、
 洗われて、せいろなどに盛って、
 すっと、水が引いた瞬間が、
 一番おいしいといわれている。

 だから、そば屋で酒なんぞ飲んでぐずぐずしていると、
 「ほらほら、そばがノビてしまいますよ。」
 と、女将さんに促されたりする。

 老舗のそば屋さんの中には、
 「大盛りはありません。
  盛りの量が多いと、
  食べているうちにそばがノビてしまいますから。」
 と、言われるところもある。
 
 大人数の宴会などで、
 「そばは無礼講」などと呼ばれるのは、
 みんなに行き渡るまで待っていたら、
 そばがノビてしまうから。
 たとえ、下っ端だろうが、小間使いだろうが、
 茹でて出された順に食べるのが、
 あたりきしゃりき!
 部長、専務、社長、大臣、ヒラ、
 この際、肩書きは関係ないのだ。

●さて、そばがノビているって、
 どんな状態なのだろう。

 はっきり分かるのは、
 盛られたそばがくっついてしまうこと。
 そうして、ぐにゃっという食感になってしまうこと。

 なんで、こうなるの?

 何でも、そば粉には、
 水溶性のタンパク質が多く含まれ、
 それが、茹でられた後に溶け出して、
 、、、うんぬん。

 つまり、そば粉の割合の多いそばほど、
 ゆでた後にノビやすいようだ。

 上司が言っていた、
 「いいそばほど、ノビやすい。」
 というのは確かなことのようだ。
 だから、そば粉の割合の多かった新しいそば屋は、
 出前には向かなかったのだね。


●でも、どこでも、好きな時に、
 そばを食べたい、
 というのも、一つのニーズ。
 ましてや、食べ物屋の少なかった昔は、
 そば屋の出前は重宝した。

 ある時、そば屋の厨房を覗いたら、
 出前用のそばを盛る前に、
 懸命にうちわで扇いでいた。

 水気を飛ばすことによって、
 少しでもノビるのを、
 延ばそうとしていたのだねえ。

 お客さまの話では、
 あるコンビニで売られているざるそばには、
 「ほぐし水」というのが付いているそうだ。

 プラスチックのパックに盛られたそばは、
 全く、ノビた状態で、固まっているけれど、
 その水をかけると、あら不思議、
 パッと、そばがほぐれて、
 おいしく食べられるそうだ。


●そばはノビる前に食べるに限る。
 だから、そばが来たら、
 一気に、たぐり込むように食べるのが、
 そば通の常識、、、、
 と思いきや、
 中には、ノビたほうが好きだという方もいらっしゃる。

 そばをお出しても、しばらくそのままにして、
 おかれるのだ。
 その方のおっしゃるには、
 店によってノビ方が違うので、
 そこを見極めるのが難しいとか。

 また、最近は、
 一枚のそばを、
 20分ぐらいかけて、
 すこしづつ召し上がる方もいらっしゃる。
 まるで、そばのノビていくのを、楽しんでおられるようだ。

 それでも、
 ノビのない、
 しゃきっとしたそばをお出しするのが、
 そば屋のつとめ。
 タイミング良く茹で、よく洗い、
 丁寧に水を切る。
 そうして、どんなに忙しくとも、
 ノビない体力をつけておくのも、
 そば屋の仕事のうち、、、なんだなあ。


白い飯ばかり食べていると、、、、


●江戸時代は終わり頃、下町の一角に、
居を構えている大工の棟梁。
たくさんの若い衆を抱え、
あっちのお店、こっちの現場へと忙しい。

ところが、その若い衆の中でも、
一番の働きをしていた熊五郎が、
俄に床についてしまった。

棟梁は心配して、他の者に尋ねる。
「おい、猫八、熊五郎の具合はどうなんだ。」
「へい、それが、なんでも、脚に力が入らなくて、
 起き上がることが出来ねえっていうんですよ。」

棟梁は若い衆の顔を見回しながら、
しみじみと言う。
「俺はなあ、若いときに食べるものに苦労をしたから、
 せめて、お前たちには、
 白い飯をたっぷりと食わせてやりたいと思っている。
 それが、一番飯を食っていた熊五郎がこのざまだ。
 それにひきかえ、猫八、お前らは飯もろくに食わずに、
 そばばっかり食べにいっているだろう。」

頭を掻きながら答える猫八。
「へい、ご存知でしたか。
 そりゃあ、白い飯もおいしいんですが、
 なにしろ、あっしは、大のそば好きだもんで。」

さて、起き上がれなくなった熊五郎、
医者の見立てでは「江戸患い(わずらい)」というものらしい。
なんでも、江戸を離れると、回復することがあるという。

そこで棟梁は、百姓をしている田舎の親類に、
熊五郎を預かってもらうことにした。
大八車に乗せられ、猫八たちに引っ張られて、
熊五郎は江戸を去ったのだった。

さてさて、一年もたった頃、
元気になった熊五郎がかえってきた。
「いやあ、田舎はひどいよ。
 何しろ食べるものといえば、麦や豆ばかりなんだ。
 また、ここで、白い飯を食べて、
 ばりばりと働くぞ。」

棟梁も、猫八も、ほかの若い衆も、
熊五郎が元のように元気になったので、
大いに喜んだのだ。

が、しかし、、、、。


●私の若い頃には、小学校の身体検査の時、
ゴム製のハンマーで、膝の頭を叩かれた。
そう、ある程度御年配の方なら、
ご存知だろう。

えっ、何のことかって。
ハンマーで叩いて、脚がピクッと反応すればOK。
反応がないと、脚気(かっけ)の疑いがあるとされた。

脚気は、ご存知のようにビタミンB1の欠乏症。
いわば、栄養失調なのだが、戦前までは、
結核と並ぶ国民病で、亡くなる人も多かった。

これは、白米ばかりを食べることによって、
玄米で補われていたビタミンが摂られなくなったため。
江戸時代の中頃までは、
殿様や武士たちのかかる病気だったが、
白米食が庶民の間でも行われるようになって、
底辺が広がった。

特に、江戸の住民の間ではやったので、
「江戸患い」と呼ばれたのだ。
大工の熊五郎も、
白米ばかりを食べていたために、
「脚気」にかかったのだね。

●この「脚気」による被害が大きかったのが、
明治時代の陸軍だった。
日清、日露の両戦争で、
「脚気」に倒れた兵士の数の多いこと。

これは、強い体を作るため、という目的で、
白米中心の食事を、陸軍が進めたため。
日露戦争での戦死者は4万7千人。
ところが、約25万人が脚気を患い、
亡くなったのは2万8千人。

一方の海軍では、麦飯を導入したため、
ほとんど脚気患者を出さなかったといわれている。
当時はまだ、細菌によって脚気が起こると、
信じられていたのだねえ。

明治の終わり頃にビタミンが発見されて、
脚気は、ビタミンB1の欠乏症だということがわかっても、
その撲滅までには、長い時間がかかったのだねえ。
そお、私の子供時代までね。

●脚気を予防するには、ビタミンB1を含む食品を食べるといい。
多く含まれるのは、玄米、豚肉、うなぎ、大豆、ごま、ピーナッツなど。
それに、麦やそばにも含まれている。

すでに、江戸時代には、脚気患者にそばを食べさせると、
回復するということを、漢方医たちは知っていた。
でも、明治維新で、西洋に目を向けてしまった政府は、
それまでの漢方を、すべて否定してしまったのだね。

さて、棟梁のところで働いていた熊五郎。
白いご飯ばかり、おいしい、おいしいと言って食べていたから、
脚気になってしまった。
それが、田舎へ行って、
豆や麦などのビタミンB1を含む食べ物を食べたから、
元気になって、帰ってきた。
でも、また、白いご飯ばかり食べていて、
大丈夫なのだろうか?

いいえ、
同僚の猫八が、熊五郎をそば屋に誘ったら、
この熊五郎、すっかりそば好きになってしまった。
そうして、棟梁の元で、ずっと元気に働いたのだった。

江戸時代に広まった「そば」。
そのおかげで「脚気」にかからずに済んだ人たちが、
結構いたのではないだろうか。

そのように、私は勝手に想像している。

えっ、脚気って、昔の病気かと思っていたら、
今の人でも、かかる人がいるって?
コンビニのおにぎりや、お菓子だけを食べていたり、
お酒ばかり飲んでいるあなた、危ない危ない。

そばをズズッと手繰って、
元気に過ごそう。



耳の痛いそば屋の「いろはかるた」


●ある「いろはかるた」の文句から、

ーい  勢いをつけよお客の迎え声
ーろ  緑青(ろくしょう)に気付け銅鍋、銅しゃもじ
ーは  繁盛の木に油断の虫が喰い。

そっ、そんなこと言われたって!
あのぉ「緑青(ろくしょう)」ってなあに?

これはいったい、
何の「いろはかるた」なのだろうか。

ものの本によると、
何でもそば屋を営んでいた、長野の岡本さんが、
昭和8年に作った「かるた」なのだそうだ。
そば屋の宣伝として、
刷り物にして広く配布したという。

昭和8年といえば、
先頃亡くなった、三遊亭円楽の生まれた年。
ドイツでは、ヒトラーが政権を取り、
日本は国際連盟を脱退した年。

今から、七十年以上前に作られた、
そば屋のかるた。
これがねえ、今でも耳に痛い、、、
のだ。


●その当時といえども、
やはり、店の衛生、清潔が大切。
常に、整頓と、道具の整備を怠らないこと。

ーち  散らかった、店にお客は寄り付かず
ーれ  料理場にさびた包丁、赤い恥

なるほどねえ、最近はさびない包丁もあるけれど、
やっぱり、手入れは必要。
最初の「緑青」は、銅製品に出来る青緑色の錆。
昔は、鍋やおろし金、ひしゃくなどに、
銅がよく使われた。
手入れをしないで、水に濡れたままにしておくと、
すぐに、青い色が浮いて来て、
さぼっているのがわかってしまう。


●そば屋というのも商売。
お金に対する考え方も大切。

ーし  仕入れものすべて現金、借りぬよう

うう〜ん、これは大事なことだ。
そば屋は日銭商売。
下手に、つけを溜めてしまうと後が大変。

ーり  流行は着物にきずに店にかけ

たとえ儲かったとしても、
贅沢をしてはいけない、という戒め。

ーひ  控えめに費(つか)わぬ財布足を出し

商売が大きくなってくると、
つい、気も大きくなって散財しがち。
ぐっと引き締めなければ。


●さて、そばの味も大切。

ーほ  ほめられて気をゆるめるな塩加減

そう、ほめられたからって、
いい気になってはいけない。

ーて  ていねいは下手も上手の仕事をし

まずは一つ一つ、
丁寧な仕事をすることが、
お客様に喜ばれる秘訣なんだねえ。

ーみ  磨け腕、自慢は道の逆戻り

商売に慣れてくると、自分のやり方に、
いや、自分のやり易いやり方に傾いていきがち。
腕自慢に満足しては、時代に取り残されてしまう。

ーの  のびたそば売る店だんだん縮こまり

そりゃあ、そうだろうねえ。

ーね  値で売るな味と仕事と品で売れ

ほらほら、耳に痛い。
クーポン券や値引きで人を集めたって一時的なもの。
やはり、そばの味で評判にならなければ。
それに「品」とあるところが、ちょっと憎い。


●商売は、昔も今も、
お客様に喜ばれてこそ、
成り立っていくもの。

ーに  ニコニコの店に閑(ひま)なし客の山

ぶっきらぼうの店よりも、
笑顔でそばを出された方が、
気分がいいもの。
これがねえ、わかっていても、
続けられない店が多いのだ。

ーゆ  有名になるほど店の腰低く

うちは有名じゃないから、
腰が高くてもいい、、、、わけがない。

ーお  おいしさも、まずさも一つは店気分

料理の味の感じ方も、
店の雰囲気や接客によって左右される。
目のつかぬところにも気を使い、
お客様をもてなす気持ちを店が持たなければ、
どんなにおいしいそばを出したところで、
おいしく感じなくなってしまう。


●この昭和の初めの頃の、
そば屋の作った「かるた」を読んでみると、
今も昔も変わらない、商売の姿が見えてくる。
当時の商売も、厳しいものがあったのだろう。

ここに書かれたことは、
今でも充分に通じること。
そば屋という生業を続けていくには、
常に、こうして自らを戒め、
注意を呼び起こしていかなければ。

特に、こんな言葉はね。

ーゐ  居眠りは不体裁ぞや店の番

居眠りをしたいほど閑なときも、
時々あるもので、、、。


「運そば」は博多の街から

●またまた、昔々の物語。
今回は、「年越しそば」の縁起にまつわるエピソード。
へえ、博多では、「年越しそば」のことを、
「運そば」とか「福そば」とか呼ぶんだね。

さて、今からおよそ800年近く前のこと、
というと、鎌倉時代半ばの頃のお話。

その年、九州は博多の街は、
疫病が流行り、恐ろしいほどの不景気に落ち込んだ。
もう正月だと言うのに、人々は食べるものもない有り様。
これでは、新しい年への希望など持てそうもない。

いよいよ明日は新年を迎えると言う日に、人々の間を、
「承天寺(しょうてんじ)にお出で、承天寺にお出で。」
と触れ回るものがある。
さて、食べるに困った人たちが、
何事かと承天寺に駆けつけたところ、
山と積まれた袋の中から、
白っぽい粉を掬いだして分け与えてくれている。

「これは、いったい何なんだい。」
「食べるものらしいけれど、どうやって喰うんだ。」
と戸惑う人たち。

そこで、姿を現したのが、
地元の豪商、謝太郎国昭(しゃたろうくにあき)。

「皆さん、これは世直しそばです。
 お湯と塩を入れて、かき回して召し上がれ。」

さて、その頃は、まだ、
今のような「そば切り」は食べられていなかった。
だから、掻餅(かいもち)、つまり「そばがき」にして食べたのだね。

人々は謝太郎国昭に感謝して引き上げたそうだ。


●明けて正月、不景気だった博多の港に、
中国からの船が入って来た。
それも三艘も。

街はにわかに活気づき、
昔のにぎわいを一気に取り戻した。
喜びに沸く博多の街では、
誰それとなく、こんなことを言うようになった。

「世直しそばじゃ。
 謝太郎の掻餅じゃ。
 縁起直しの運そばじゃ。」

こうして、博多の人たちは、
謝太郎の業績を称え、
大晦日には、必ずそばを食べるようになった。
それを食べることによって「運」が開ける、
「運そば」としてね。

だから、博多では、「年越しそば」のことを、
「運そば」とか「福そば」とか呼ぶんだね。

これが全国に広まって、
「年越しそば」となったのだ、、、
というのが、数多くある、
「年越しそば」の縁起の一つだ。


●そばを振る舞った謝太郎国昭は、
元は中国の人だったが、
日本に帰化して、貿易を営み、
博多で一二を争う大金持ちとなった。

そしてこの人は、宗に留学して帰って来た、
円爾(えんに)こと、聖一国師(しょういちこくし)を援助し、
この承天寺を建てたのだ。

聖一国師は、最初に「国師」という称号を与えられた、
高名な禅僧。
当時の天皇や、鎌倉幕府の北条家など、
多くの人が、この人に帰依をしている。

さて、中国で修行した聖一国師は、
様々なものを持ち帰って、日本に伝えた。
その中でも有名なのが「饅頭(まんじゅう)」。
米麹を使った酒饅頭の作り方を伝えたらしい。

甘党のお坊さんだったのだろうか。
そうして、甘いものを食べれば欲しくなるのが、
「お茶」。

そのお茶も、この聖一国師が伝えたものと言われている。
故郷の静岡に蒔いた種が、やがて、その地に合うように育ち、
今の静岡茶の元になったのだと言う。


●また、この人は、
「うどん、そば」を日本に伝えたとされている。
要するに、「麺」という食べ物を伝えたようだ。
だから、承天寺には「饂飩蕎麦発祥之碑」が建てられている。

実際には、
「そば切り」が世の中に普及するのは、
ずっと後のことだから、
まず粉を作る技術が伝わったのかもしれない。
粉を作れたから、
大晦日に、そばを振る舞うことが出来たのだねえ。

とにかく、その偉〜いお坊さんである聖一国師をあがめ、
承天寺というお寺をつくったのが、
中国の人であった謝太郎国昭。
そうして、不況の中で、
食べ物もなかった人たちに、
当時は珍しかったそばの粉を配り、
「掻餅」として振る舞ったのだ。

たとえ、博多の大金持ちだとしても、
それだけのことをする「太っ腹」。
800年後まで、その話が伝わるという「豪気」。
すごい人がいたものだ。


●そんないわれはともかくとして、
大晦日に「年越しそば」を食べる習慣は、
全国に広まっているみたいだ。

そばを食べて、
「運」が向く、なんていい話。
このメールマガジンを、
最後まで呼んでいただいた皆様に、
ぜひ、いい「運」がやってきますように。
良いお年を!

あっ、そばを食べるのを、
お忘れにならないように、、、。