●立春を過ぎたとはいえ、
まだまだ、寒い日が続いている。
長野でもこのところ、
最低温度がマイナス5度とかいう日がある。
そんな寒い朝、長野の町でかわされるこんな挨拶。
「いやあ、今朝はかんじたねえ。」
「ああ、かんじたねえ。」
そう、うんと寒いことを、この辺の人は、
「かんじた」というんだね。
これが、同じ長野県でも、松本や諏訪の方へ行くと、
「いやあ、今朝はしみたねえ。」
というように「しみた」と言うそうだ。
場所によって、そんな寒さの感覚が微妙に違うのかもしれない。
そういえば、北海道の人は、
「しばれる」と言うとか。
長野県では、この寒さを利用して、
寒天作りや凍り豆腐が作られて来た。
今では工場生産も多くなったが、
未だに、天然の寒さを使った寒天作りは続いている。
そうして、そばも、この寒さを使って加工されたりしているのだ。
●長野市からさらに北へ行った新潟県境の信濃町。
ここは豪雪地帯で、なおかつ、そばの産地として有名なところ。
ここで、寒さを利用した「凍りそば」が作られている。
冬の、うんと「かんじる」夜にそばを打ち、
茹で上がったそばを、一口大の輪にまとめる。
それをざるの上に並べて屋外に出し、
外気に当てて凍らせる。
その後、それを日陰に保存し、
解凍と凍結を繰り返させながら乾燥させていく。
そお、即席ラーメンなどの、フリーズドライと同じ製法。
でも、自然に乾燥させるには、一ヶ月から二ヶ月かかるそうだ。
そうして出来た「凍りそば」は、
そのまま保存できるから、いつでも使うことが出来る。
そうして、椀に入れて、熱いだし汁を注ぐだけで、
直ぐに、そばが食べられるのだ。
まさに、インスタント!!!
この「凍りそば」は、
江戸時代の終わり頃から作り始められたらしい。
戦後は作る人がいなくなったが、二十年位前から、
地元のグループが復活させて生産されているとの話。
手作りのためと、冬の、ごく寒い季節にしか作れないので、
売られているのは、ごくわずかとのこと。
機会があればお試しあれ。
●また、信州の冷たい川の水にそばを浸して作る、
「寒ざらし」そばも、復活して作られ始めた。
これは、寒中の川の水の中に、
玄そばを放り込んで、
数日間さらしておくもの。
その後、水から取り出し、
乾燥させて保存する。
この玄そばを使って作った「さらしな粉」は、
夏になっても風味の落ちない最上品とされ、
江戸時代には、信濃から将軍に献上されたそうだ。
このそばも、長らく作られていなかったが、
最近になって研究するグループがいくつか出来て、
夏の期間限定で、販売されているらしい。
八ヶ岳の麓のグループは、
今年は900キロの玄そばを仕込んだと、
新聞に報じられていた。
何でも、寒さにあたるために、
甘さがぐっと増すのだと言う。
●そう、野菜というものは、
寒さの中で保存すると、
甘さが増すと言われている。
だから、近頃は、雪の中に保存した、
キャベツやニンジンが売られている。
このニンジンを食べたことがあるけれど、
とても甘いのだ。
だから、そば粉も、雪の中に置いたらどうだ、、、
と、信濃町にあるそば粉屋さんが考えた。
そこで、雪の中に玄そばを麻袋ごと積み上げて、
雪に埋もれさせた。
何でも、今年は大雪で、
そばがすっかり雪の下になってしまったそうだ。
それを掘り出して、粉にして、
やはり「寒ざらしそば」として、売り出している。
試したけれど、どういうわけか、
しっとりと、滑らかな感触のそばに仕上がる。
不思議なものだ。
●信州の厳しい冬の寒さも、
このように生かすことが出来るのだねえ。
ここまでくれば、春ももう少し待てばやってくる。
でも、人間も、
寒い寒いと言って、家の中に閉じこもっていないで、
寒さにあたった方が、
少しは、味が出てくるのかなあ。
「寒ざらし人間」なんてね。
どちらにしろ、この寒い季節が、
そばの一番おいしい季節といわれている。
秋に収穫されたそばが落ち着いて、
甘みが乗ってくる時期なのだ。
寒さの中を、
ぜひ、そば屋に足をお運びを。
2016年10月
80年前のソバの産地ランキング
●ちょっと古い本を読んでいたら、
昭和5年の各県別のソバの生産量の表が載っていた。
昭和5年と言えば、、、、、
、、私は生まれていないので、
よくわかりません。
この年、東京の三越で「お子様ランチ」が売り出され、
脚光を浴びたそうだ。
まだ、戦争の陰は薄く、
そばも、大いに食べられていた時代だったことだろう。
さて、今から80年前の日本。
そのころ、ソバの栽培の盛んな県と言えば、
ほほお、
なるほど、なるほど。
さて、一番でダントツの生産量を誇っていたのは、
どの都道府県でしょうか?
そうして、ダントツの二位は?
●去年は天候不順の影響で、
全国的にソバの出来が良くなかった。
10アールあたりの収穫量は、
例年の60パーセントだったと統計が出ている。
おかげで、国産のそば粉が不足。
そば屋も、製粉屋さんも、
頭を悩ませているこの頃なのだ。
現在の国内のソバの生産量を見ると、
圧倒的に北海道が多く、
国内産の約半分近くを出荷している。
やはり、土地の広さが違うのだろう。
あとは、茨城、福島、山形、などが
続いている。
おっと、いけない、我が長野も、
この二番手のグループに入っている。
そうして、福井がそのあとを追い、
青森、秋田、新潟、栃木などが三番グループを作っている。
さて、現在のソバの産地は、
このようなところだが、
果たして、80年前、
昭和五年の産地は、どうなっていただろうか。
●その前に、ちょっと、
ソバの栽培されている場所を考えてみよう。
「そばの自慢はお里が知れる」
などという言い伝えがあるが、
ソバというのは、米の栽培に向かない、
冷涼な山間地で作られたものが、良いソバと言われる。
つまり、良いソバの産地ということは、
険しい山に囲まれた場所ということ。
「褒められて所はづかしそばの花」
などという川柳もある。
山ばかりの何もないところで、
ソバの作られる恥ずかしさを詠んだものなのだろうなあ。
今だったら、逆に、
そういうところの方が、
都会の人には喜ばれる気がする。
だって、
今、日本で作られているソバの多くは、
減反対策で、平地の田んぼで作られているののだから。
ソバの産地といえども、
決して山の中とは限らないのが、
現代の特徴だ。
●では、
昭和五年のソバの生産量ランキングの発表!!
十位から六位までは、
静岡、長野、栃木、熊本、岩手
あれっ、長野は九位だったのか。
五位 青森、
四位 宮崎、
三位 茨城、
そうして、ダントツの二位は、
鹿児島。
さらに、さらにダントツの一位は
ほっ、ほっ、ほっ、
北海道!!!!
なんだ、昔から、北海道は、ソバの一大産地だったのだ。
もっとも、北海道は、
寒冷なため、稲作がなかなか発達しなかった地域。
今でこそ、稲の品種改良が進んで、
大規模に栽培されるようになったが、
その前までは、ソバぐらいしか育たなかったのかもしれない。
●でも注目すべきは、
九州で、多くのソバが作られていたことだ。
特に鹿児島、宮崎、熊本などの名が挙がっている。
九州の山間部では、昔は盛んにソバが作られていたことが、
この資料からもうかがえそうだ。
また、名前は出て来ないが、中国地方や四国でも、
結構栽培されていたようだ。
つまり、山奥の、
他に作物が出来ないようなところには、
必ずソバが植えられていたのだろう。
それが、今では、機械の入らない山の畑では、
ソバすらも、作られなくなってしまったようだ。
さてさて、少しは様変わりしたソバの産地。
でも、田んぼで作るそばより、やっぱり、
山奥の畑で作るそばの方がおいしい気がする。
ともあれ、今年は、天候に恵まれ、おいしいそばが、
たくさんとれますように、、、、
ひたすらそう祈っている。
そば屋の褒め方
●そば屋というのは、
なかなか、褒められることが少ない。
どちらかと言えば怒られることばかり。
「店が汚い」
「出てくるのが遅い。」
「そばが、期待するほどうまくなかった。」
「お釣りを間違えているぞ。」
「お前の顔が悪い。」
とまあ、いろいろなことで叱られている。
それでも、時々、
お客様にこんな言葉をいただいたりする。
「おいしかったよ」
これは、何よりもうれしい褒め言葉。
「路地裏で、人が少なくていいねえ。」
と褒められることもあるけれど、
これは、私の方で複雑な気分。
お客様には、たくさん来ていただいた方が、、、、。
昔の江戸っ子も、
そば屋を褒めるっていえば、
せいぜい、こんな言葉。
「あの店は、
そばはうまいが、
汁がいまいちだなぁ。」
えっ、これって褒めていないじゃないか?
と思われるかもしれないが、
シャイな江戸っ子にとっては、
精一杯の褒め言葉であったようだ。
●ところが、そんな江戸っ子が、
そば屋を、べた褒めする話がある。
ご存知、落語の「時そば」。
ある江戸っ子が、屋台で売り流しているそば屋に声をかける。
そうして、「しっぽく」を注文すると、
ことあるごとに、そのそば屋を褒めるのだ。
「看板が当たり矢じゃないか、
こりゃあ、縁起がいい。」
「おっ、待たせずにすぐ出来るなんていいね。
江戸っ子は気が短いのだから。」
「ちゃんと割り箸を使っているね、
これはきれいでいい。」
そんな感じで、
ドンブリを褒め、
そばが、細くてコシがあると褒め、
具の竹輪が厚く切ってあると褒める。
そうして、そば屋の主人をおだてておいて、
十六文のそば代を払う時に、時間を聞いて、
一文ごまかすのだ。
それを横で見ていた、
一枚抜けている江戸っ子が、
同じことをやろうとして失敗するというお話。
●この「時そば」は、
寄席では前座さんがよくやる。
でも、経験豊富な師匠が話すと、
もっと楽しくなる。
先代の「小さん」師匠がやると、
近所のそば屋は、寄席帰りの客でいっぱいになったそうだ。
そうやって、褒められれば、
そば屋だって、一文ぐらい足りなくても、
気分はいいことだろうなあ。
●ある年配のお客様。
とても、食べ慣れているご様子で、
すすす、、、と、そばが口の中に吸い込まれていく。
そうして、帰り際に、
「おいしい汁だねえ。」と言っていかれた。
そう、私のような職人は、
そばも褒められればうれしいが、
苦労して作った汁の価値を、
解ってもらえれば、もっとうれしいのだ。
ある方によると、
食べ物屋によって、
お店を喜ばす褒め方が違うそうだ。
そば屋だったら汁を褒める。
天ぷら屋は衣を褒める。
うなぎ屋は焼き方を褒める。
寿司屋はシャリ、つまり米を褒めるのだそうだ。
どれも、あまり目立たないが、
職人さんの苦労しているところなのだ。
ある寿司屋さんに聞いたら、
そこでは、すし飯の温度に気を使っているそうだ。
寿司のネタは冷たくとも、シャリは、
人肌程度のぬくもりを感じさせるくらいがいいという。
もちろん、ネタのよさにも自信があるが、
やっぱり、米を褒められるとうれしいという。
そういうところまで、気のつく方がいらっしゃると、
普段の気遣いが報われるそうだ。
でもねえ、そうやって、
シャリを褒めてもらってうれしいのは、
寿司の食べ方をきちんと知っている方から、
声をかけられた時だという。
寿司の食べる順番や食べ方で、
寿司屋は、客のレベルが解るらしい。
そのレベルの高い方から褒められるのが、
一番うれしいそうだ。
店に入ってきたとたんに、
「大トロ」、「ウニ」、
と頼むようなヤボッ食いに褒められても、
ちっともうれしくないという。
そば屋だって、同じかもしれない。
おいしい食べ方をする方に、褒めていただくと、
「一文」ぐらいは、
まあ、だまされてもいいや、、、
という気になるのだ。
あくまでも「一文」(いちもん)。
だけ、、、ですが。
「外二(そとに)そば」って何?
●先日の取材に来られた、
テレビのレポーターの方は、
目のクリッとした、かわいい方だ。
こういう若い方と話をするだけで、
つい鼻の下が伸びてしまう、、、
あ〜あ、おじさんになってしまった私。
その目玉ちゃんは、マイクを突き出して、
いきなり、こう聞く。
「あの、この店のおそばは、
どんなおそばなのですか。」
はっはっはっ、このくらいの質問なら、
カメラの前でも慌てずに答えられるぞ。
「はい、外二の割合で打った、
細めの手打ちそばです。」
テレビに出る方は、
たいていオーバーなアクションをする。
目玉をさらに大きくして聞いてくる。
「えっ、いま、ソトニ、とおっしゃいましたね。
ソトニってなんですか。」
「はい、そば粉とつなぎ粉との割合のことで、
そば粉が10に、つなぎ粉が2の割合になります。」
そうしたらレポーターさん、自分の指を広げ、
「だって、そば粉が10で、
あとの2はどうやって足すんですか。」
などという。
なるほど、テレビを見ている人に解りやすくするために、
わざとトボケているのだね。
こういう仕事も大変だ。
「ええ、そば粉を10杯鉢に入れて、
つなぎ粉を2杯足せばいいのです。」
「あっ、そうか。
10杯と2杯と言うことなのですね。
ところで、つなぎ粉って何ですか。」
「そばを作る時に、そばだけではまとまりにくいので、
つなぎ粉を入れて、つながりやすくするのです。
それによって、そばが切れずに、つるっと食べられるようになります。」
うん、我ながら、優等生的回答。
「そのつなぎ粉って、何を使うのですか?」
「小麦粉です。」
そうしたら、またまた、目玉がぐぐっと大きくなって、
のけぞるように驚いた表情でいう。
「えっ、そばって、!うどん粉!が入っているんですか?」
何も知らないフリをする、
目のクリッとしたレポータさん。
いくら仕事だからといって、
そこまでボケなくても。
(ひょっとしたら天然?)
●、、、ということで、
こういうテレビの取材は疲れるなあ。
でも、あとで放映された映像を見たら、
ちゃんと『大人』向けに編集されていた。
たしかに、
そばは「外二(そとに)」で打ちました、
といっても、普通の人には解りにくい。
その度ごとに説明しなければならないのが現実。
なぜ「二八(にはち)」と呼ばないのか、
とも聞かれたりするが、
だって、「二八」は8対2の割合。
「外二」は10対2の割合。
微妙にそばの濃さが違うのだ。
それに、
「二八そば」という言葉には、
ただ単に、そば粉の割合を表すだけでなく、
小麦粉のつなぎを入れた、
一般的なそばを指す意味としても使われているんだ。
東京にいた頃に使っていたそば屋も、
表にはしっかりと「二八そば」の看板があるのだが、
親父さんに聞いてみると、同割りだという。
つまり、5対5の割合。
出前も種物も扱うそば屋としては、
そのくらいが、麺線を保つ限度らしい。
江戸末期に、街で売られたそばは、
相場が16文と決められてという。
そこで、そのそばを、
2×8で、16文で食べられるということで、
「二八そば」の名が広まった。
だから、「二八そば」の看板を掲げる店は、
「生そば(きそば)」(十割の意味)の看板を掲げる店より、
庶民的な店ですよ、
と、アピールしたわけだ。
けっして、そばが八割、つなぎが二割の意味ではなさそうだ。
●しかしながら、今では十六文ではそばを食べられないから、
本来の割子の割合と関係なく「二八そば」と名のるのは、
はなはだ、解りにくい。
今だったら、500円の「ワンコインそば」とか、
ドルも安くなったので「9ドルそば」とか、
大手の雑誌と同じ値段の「文芸春秋そば」とか、
近くの有料駐車場の駐車料金と同じになる「1時間半そば」とか、
まあ、いずれにしろ流行りそうもないが、
別の呼び方があるだろう。
そば粉の割合でいえば、
「同割(五五)」「六四」「七三」「二八」「九一」
などの呼び方がある。
あれ「二八」だけ、そばの割がひっくり返っている。
まあ、中には「逆七三」(そば粉3:つなぎ粉7)なんかもあって、
なにがなんだか。
ちなみに、乾麺では、
「逆七三」以上のそば粉の含有率がないと、
「そば」と表示できないことになっているらしい。
乾麺の業界の皆さんは、かなりぎりぎりの割合で、
苦労をされているみたいだ。
でも、そのくらいの割合で、
しっかり、そばの風味を出しているのも、
たいしたものだと、感心してしまう。
●で、さっきから、そんな話をせせら笑っているのが、
「十割そば」なのだ。
俺こそが、混じりけなしのそばの本道よ、、、、
などと威張っているが、
どっこい、
栄養面で見ると、
二三割小麦粉を混ぜたそばの方が、
バランスがいいそうだ。
十割そばを打つと、よく聞かれるのが、
「長芋でつないでいるのですか?」
「たまごを使っているのですか?」
という質問。
「十割そば」というのは、
そば粉と水だけで作るそばのこと。
他には何もいれていません。
そば粉には、水で溶くと、
もともと、ねっとりとして、くっつきあう性質がある。
その性質を、最大限に生かしてそばを打てば、
「十割」で打つことも出来るのだ。
でも、
そば粉の皆さんは、飽きやすい性格のようで、
くっつきあっているのが、長持ちしない。
だから、小麦粉のようなホスト役、またはホステス役を入れて、
円満に生地が繋がるようにしている訳なんだね。
●昔は「色の黒いそばの方が、そば粉の割合が多い。」
などと言われたりしたが、
色の白いそば粉もあるので、
色と、そば粉の割合とは関係がない。
ソバの実の外側の部分を多く挽き込むと、
黒っぽい粉になるまでのこと。
でもねえ、
そばを一口食べただけで、
「これは七三のそばだ。」
「これは九一だ。」
などと判る人は、
まあ、あまりいないことだろう。
ただ、使っているそば粉によって、
また、店の人の考え方によって、
一番使いよい、そして、おいしくいただける割合があるのだろう。
それが私の場合は「外二」だったわけだ。
十杯と二杯。
粉を量る時に、計算しやすいから、、、
、、というのも、あるかなあ。
本家、本流、看板の取り合い
●ひと昔、いや、ふた昔前の頃には、
どこの温泉地にいっても、
「温泉まんじゅう」が売られていた。
たいてい、何軒かのまんじゅう屋があって、
競い合っている。
果たして、その店が温泉まんじゅうを、
最初に造り始めたのかどうかは知らないが、
ある店は「元祖温泉まんじゅう」という看板を掲げている。
それに対抗する店は「本家温泉まんじゅう」とうたっている。
さらに、それに対抗して「総本家」を名乗る店があったりして。
どちらも、
自分のところが
「本筋の作り方を伝承している店ですよ」
と強調しているのだろう。
まあ、
食べる方としては、
「元祖」だろうが、「本家」だろうが、
「総本家」だろうが、
おいしければ、どちらでもいい気がする。
●さて、そば屋の世界でも、
「本家」の使い方を巡って、
裁判にもなった店名がある。
東京は麻布に、
三軒の老舗のそば屋があるが、
どこも、200年の伝統をうたい、
創業者は「布屋太兵衛(ぬのやたへえ)」だという。
三軒の名は
「永坂更級布屋太兵衛」
「麻布永坂更級本店」
「総本家更級堀井」。
どこも、自分の店こそが、
布屋太兵衛のそばの流れを汲むものと、
「本店」「本家」「本流」を名乗っているのだ。
これってどういうことだろう。
●寛政元年(1789年)に、
信州特産の信濃布という布を商っていた太兵衛が、
麻布に「信州更科蕎麦処 布屋太兵衛」の看板を掲げた。
この時の「更科」は、
蕎麦の産地である信濃の「更級」の地名と、
そば屋の開業を勧めた領主の「保科」氏の名前から、
いただいたと言われている。
これを今も呼ばれる「更科そば」の起りという人も居るが、
じつは「さらしな」の名は、その前から使われていたようだ。
その布屋太兵衛の店は、色の白い御前蕎麦を看板商品として、
大いに流行ったらしい。
明治には「永坂更科」とよばれ、
独自の更科の製粉方法も生み出し、
何軒かの暖簾分けも行った。
ところが、昭和の初めの大恐慌、
加えて七代目当主の芸者遊びがだめ押しとなり、
昭和16年に廃業と相成った。
あらあら。
戦後になって、
布屋太兵衛の名を惜しんで、
相次いで、その名を使ったそば屋が開業し、
さらに、八代目となる子孫も本流を主張して麻布に店を開いた。
「永坂」と「布屋太兵衛」の名をめぐって、
商標権が争われたが、
最終的に今の形に落ち着いたようだ。
なるほどなるほど。
有名な名前だからこそ、
看板の取り合いになったわけだ。
そうして、三軒とも、
今でも老舗として、繁盛しているようだ。
●さて、昔はそば屋の系列に
「更科」「薮」「砂場」の三つがあると言われた。
それぞれにそばを作る流儀が微妙に違う。
でも「更科」では、明治になるまで暖簾分けをしなかったので、
その正式な系列店は、東京にある六軒ほどの店だけといわれている。
他にも「更科」を名乗る店があるが、
繁盛にあやかって使われているとの話。
暖簾分けという方法は、
今はやりのチェーン店のはしりでもある。
だけど昔は、その看板を分けてもらうには、
それ相応の、技術と資産と人格が必要とされ、
簡単には分けてもらえなかったのだね。
さて、「かんだた」も
「総本家」とつけないと間違えられる、、、
というぐらいの看板(ブランド)に、
なるのだろうか。