2017年03月

入院して、久しぶりにゆっくり読書三昧

いやいや、今月は、四日間の入院をした。
といっても、
具合が悪いわけではない。
とにかく安静が必要とのことで、
点滴と、釜を洗った湯のような重湯の食事で、
ベットの上で過ごしていたのだ。

昨年の夏の市民検診で、
大腸がんの発見のための、
便の潜血検査に反応が出てしまった。
店の近くの病院で、
大腸の内視鏡検査を受けると、
なんとまあ、5ミリほどのかわいいポリープが見つかった。

その病院では、切除が出来ないとのことで、
他の病院を紹介された。
最初はある大病院を紹介されたのだが、
あそこは、人が大勢居て、
落ち着かないことは経験済み。
そこで、
前に女将が入院した小さな病院にいくことにしたのだ。

大腸の内視鏡検査は、
ご存知のように、
腸をきれいにするために、
二リットルの下剤を飲まなければならない。
そして頻繁にトイレに通わなければならないのが、
なんともうっとうしい。
しかし、内視鏡を使ったポリープの切除手術そのものは、
それほど痛みも苦痛もなく、
結構簡単に終わってしまった。

手術中、腸が動くというので、
モニターが見えない方向に向けられてしまったのが残念。
でも、あとで写真で見せていただいた。
切ったあとは、
洗濯ばさみのような3つのクリップで、
出血しないように留められていた。
ずいぶん細かい作業なのだね。

私のポリープは、
キノコ型ではなく、富士山型なので、
後で、出血しやすいとのこと。
だから、
ベットの上でひたすら安静に努めていた。
もっとも、動けないように、
ずっと点滴をされていたが。

お陰で、
久しぶりの読書三昧。
持っていった電子ブックで、
藤沢周平と司馬遼太郎。
あっという間に、四日間が過ぎてしまった。
もう何日間か、入院していたかったなあ。
何しろ、
こんなことでもないと、
ゆっくりと本を読む時間もないのだ。

大腸に出来たポリープといわれる突起は、
放おって置くと、ガンになる可能性が高いと言われている。
だから、内視鏡で取り除けるうちに、
手術をしておいたほうが良いのだね。
その方が、腹を切るよりは、
体の負担が軽くて済む。
ちなみに私のポリープは、
癌になるタイプではなく、
単なる出来物だったと、
あとの検査でわかった。

大腸がんは、早めに発見されれば、
それほど大事にならない。
女将も、もう十年近く前に見つかり、
腹を切って取り除いた。
よいことか、悪いことか知らないが、
いまだにピンピンしている。

とはいえ、
不幸な話もずいぶん聞いている。
毎年、りんごを送っている遠方の友人は、
大腸がんでなくなったと、
その妹さんから突然の電話を頂いた。
私より、十歳ぐらい若かったのに。
あるそば屋さんの奥さんは、
体調が悪かったのに我慢をして、
気がついたときには手遅れだったのだそうだ。

検査は、たしかに抵抗のある方もいるかもしれないが、
ぜひ、受けたほうが良いだろう。
病気になって苦しむのは、
本人ではない。
実は、本人の周りの人達なのだから。

入院三日目にして、
やっと、ご飯粒の見えるおかゆの食事になった。
食べ物と腸の関係、
不思議だなぁ。

 

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なんでこんなに元気な高齢者の方がいらっしゃるのだろう。

今日来られたお客様は、
なんと85歳なのだそうだ。
お一人でいらして、
40分ぐらいの間に、
生ビール三杯と、
そばを二枚平らげて帰って行かれた。

ふう、お元気だなあ。

ということで、
元気なお年寄り、
いや、高齢者の方が増えているのだね。

ここ長野では、
住人の、なんと、三人に一人は、
60歳以上と言われている。

そう言っている私も、
その仲間。
でも、まだまだ、
そのほんの入口に差し掛かっただけなのだが。

月に一度の俳句の会でも、
80歳代の方々と顔を合わせるが、
皆さん、お元気だ。
作られる俳句も、
前向きなものが多い。

友人のお父さんなんか、
その米寿のお祝いに、
高速道路を自分で運転して、
駆けつけてきたそうだ。
米寿って、88歳のことだよね。

そういう方々と接して感じるのは、
気持ちが若々しいことだ。
年をとると、
どうしても、若い頃の事ばかり語ったり、
人の悪口ばかり言う人もいる。
身体の衰えを感じたりすると、
どうしても、そんなことを言いたくなる、
そんな気分になってしまうものだ。

そんなことも気にせず、
元気さを感じさせてくれる方々もいるのだ。

その元気の源は、
おそらく、毎日の食事だろうなあ。
けっして、薬やサプリメントだけではないはずだ。
いろいろなものを食べて、
規則正しい生活を送ることが、
そんな暮らしの繰り返しが、
大切なことかもしれない。

そして、そばを食べることもね。
どこかの観光地のキャッチフレーズではないけれど、
そばを食べて「死ぬまで長生き」しなければね。

、、いや、「死ぬまで元気に長生き」かな。

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真田信繁(幸村)はそばを食べたか食べないか。

1月に群馬に行った時に、
かねてから気になっていた町、
沼田に寄ってきた。

沼田は、真田信繁(幸村)の父、
昌幸がこだわった土地だ。
家康に盾を突いても、
この場所を守ろうとしたのだ。
(第一次上田合戦)

去年、放送された「真田丸」というテレビドラマのお陰で、
ここ沼田も注目を浴び、、、、
たのかどうかわからないが、
そのドラマをテーマにした展示施設が開かれていたりした。
そのドラマ、
私は、一話も見ていないのだけれど。

なるほど、
沼田の町は全体が高台にあり、
西と北を見下ろせる。
北側には、
上越国境の山々がそびえ立つのが望まれる。
越後から関東に入るには、
ここを通らなければならない要所だったのだね。

そこで、昌幸は、ここを押さえておきたかったのだ。

ということはともかく、
そばの話だ。

真田信繁は、大阪夏の陣で討ち死にしたのだから、
1615年に亡くなったことになる。
さて、信繁は、そばを食べたのだろうか。

前にも書いたのだが、
記録に残る限り、今のようなそば、
つまり「そば切り」というものが現れたのは、
1572年。
長野県は木曽のお寺で、そば切りを振る舞ったそうだ。
それ以降の記録は、
近江のお坊さんが江戸でそば切りを食べたという、
1614年。

つまり、信繁は、
食べようとすれば、
そば切りを食べることができた時代にいたことになる。

もっとも、その頃の「そば切り」が、
どのようなものであったのか、
確かめようがない。
まだ、醤油が広まっていない時代なのだ。
どんな食べ方をしたのだろう。

江戸でそば切りが盛んになり、
今日のようなスタイルが出来たと言われるのが、
1700年台の半ばになってから。
だから、高野山の麓に蟄居させられていた信繁が、
そんな手間のかかる食べ物を、
わざわざ食べたのかは、
まったくわからないのだ、、、。

子供の頃にラジオで聞いた講談話というのは、
意外と覚えているもので、
信繁の兄、信之の妻の小松姫が、
ここ、沼田の城で、
敵方となった、昌幸、信繁を追い払う話なんぞ、
なんとなく目に浮かぶ。

沼田城には五層の天守閣があったそうだ。
それも、後に改易となった時に、
幕府によって取り壊されたとか。
私が行った時は、
とにかく深い雪で、
どこに何があるのか、よく解らなかった。

なにぶんにも、
歴史というのは朦朧としたものがあり、
なかなか、こうだとは言い切れないことが多い。
また、そこが、想像を巡らすことのできる面白さかも。

信繁は、そば切りを食べたのかなぁ。

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