2017年03月

そば好きだった稲荷大明神

●古い時代から、人々の信仰を集める善光寺。
この善光寺は、
人間ばかりではなく、
動物にも、篤い信心を持つものもいたそうだ。

本堂の西側にある経蔵の横に立っている灯籠は、
「むじな灯籠」と呼ばれている。
なんでも、下総の国(今の千葉県)から、
はるばるとやってきたムジナが、
人間に姿を変え、この灯籠を寄進したのだそうだ。

ところが、このムジナ、
かねがねの念願だった、
善光寺へのお参りを済ませてほっとしたのだろう、
泊まった宿坊の風呂で、つい、シッポをだしてしまった。
つまり、ムジナの姿を現してしまったのだ。
大騒ぎとなってしまったので、
そのまま、姿をくらましてしまったとか。

これと似たような話が、
東京のお寺に伝わっている。
キツネが僧の姿となって仏法を学んでいたのだが、
あるとき、寝ている時についシッポを見せてしまい、
本性がばれてしまったという。

このキツネが大のそば好きだった、、
というから、話がややっこしい。


●さてさて、今から時代をさかのぼること四百年近く、
江戸時代は初めの頃のお話。

江戸は、小石川というところに、
傳通院(でんつういん)という、徳川家ゆかりのお寺があった。
このお寺では、たくさんの若い僧たちが修行していたのだが、
その中で、抜きん出て優秀な学僧が居た。

その名を澤蔵司(たくぞうす)といい、
僅か三年余りで、浄土宗の奥義を修得するまでになった。

ところが、ある日、寝ている時に、
シッポを出してしまったのだ。
キツネの姿を同僚に見つけられ、
逃げ出した澤蔵司。
その夜、寺の和尚の夢枕に立ち、
「余は稲荷大明神であるぞよ。」
と正体をあかすのだ。

学業を授かったお礼に、
稲荷として寺を守護するとのことで、
和尚は社を建立した。
それが、澤蔵司(たくぞうす)稲荷として
今でも広く信仰を集めているとのこと。

●稲荷大明神が化けていたという、この澤蔵司は、
大のそば好きであったそうだ。

毎日のように傳通院の門前にあるそば屋に通っては、
そばを手繰っていたという。

ところが、ところが、
さすがにキツネの化けたもの。
そば屋のお勘定が、
いつの間にか、木の葉に変わっているのだ。

不思議に思ったそば屋が、
澤蔵司の後をつけると、
境内の椋(むく)の木のあたりで姿を消してしまった。

あとで、その澤蔵司が稲荷大明神の仮の姿と気づいて、
それから毎日必ず、初そばを稲荷に供えるようにしたのだと。
そのそば屋は稲荷のご利益があったのか、
今でも続いていて、
「稲荷蕎麦」を名乗っている。

果たして400年前に、
今のようなそばが食べられていたかどうか、、、
などと言う野暮な突っ込みは無しとして、
そば好きだった澤蔵司を祀る稲荷をお参りし、
そばを手繰ってみるのも面白いかもしれない。

●かんだたの店も、本堂からは少し遠いが、
善光寺の表参道の近くのある。
ひょっとしたら、
人間に姿を変えた、
信心深いムジナやキツネが、
善光寺の阿弥陀様をお参りして、
帰りにそばを食べに寄っているかもしれない。

いまのところ、
お金が葉っぱに変わるようなことは、
起こったことはないけれどね。


一茶の詠んだそばの花

●長野では9月になると、
あちらこちらでそばの花が咲き始める。
最近は、赤い花もあるけれど、
一般的には白い花が、畑一面に咲くのだね。
山々を背景に、この花を見ると、
いかにも「そば処信州」という感じがするのだ。

さて、信州に生まれた有名な俳人の小林一茶。
若い時は江戸に暮らしたが、
晩年は信州に戻り、その暮らしに根ざした作品を残した。
一茶の俳句は、
それこそたくさんあるけれど、
その中で、そばの花にまつわる句を探してみよう。

●先ず、有名なのがこちら。

  「そば時や月の信濃の善光寺」

「そば時」とは「そばの花の時」のこと。
月の光に照らされた、一面の白いそば畑と善光寺。
そんな信州の象徴的な風景を詠んだのだね。

 「痩せ山に はつか咲けり 蕎麦の花」

そばの花は、実になるまで、
けっこう長い間咲いているから、
その様子を「はつか」と詠んだのだろう。
痩せ山とは、そば以外の作物ができないような土地なのだろうか。

● こんな句もある。

 「信濃路やそばの白さもぞっとする」

あれあれ、今度は、
そばの花を「ぞっとする」白さだといっている。
確かに、そばの花の白さは際立っているけれど、
ぞっとするほどの白さなのだろうか。

一茶の暮らした柏原(今の信濃町)は、
長野県の一番北の新潟県境に近く、
たくさんの雪が降るところ。
50歳を過ぎてから故郷に戻ってきた一茶にとって、
この冬の暮らしは、たいへん厳しく感じられたようだ。

一面に白い花が咲くそば畑を見て、
ああ、また冬がやってくる、、、
ということを実感したのではないだろうか。
つまり、白いそばの花を見て、
つい雪を連想して「ぞっとする」ことになったという。

●今の世の中を見通したような句もある。

 「国がらや田にも咲かせるそばの花」
 
そう、今の日本では、減反のあおりを受けて、
本来は稲を植えるべき田に、そばを植えているのだ。
というよりも、田で作られたそばの方が、
畑で作られるより多くなっているのが現実。
田の方が、機械で管理しやすいからね。

さすが一茶、200年後のことを、
しっかり予想していた、、、、、、はずがない。

じつは柏原では、標高が高いため、
その当時では、稲がよく育たなかった。
だから、仕方なしに田にそばを植えたのだね。
「国がら」というのは、そういう「米も満足に育たない山国」、
というような意味があるようだ。

●よく「そばの自慢はお里が知れる」という。
つまり、そばがたくさん穫れるところは、
逆に、米が穫れない貧しいところということ。

だから、うかつにそばの自慢をすると、
自分が貧しい土地の出身であることがばれてしまう、
ということになる。

それでも一茶は、それを承知で、
あえてそば自慢をしている。

 「蕎麦国のたんを切りつつ月見かな」

江戸にいた時か、あるいはどこかへ行った時にだろうか、
月見の宴で、つい、蕎麦の自慢が飛び出してしまう。
たとえ貧しさを笑われても、
やはり、故郷はいとおしいものなのだね。

こんな句もある。

 「そば所と人はいうなり赤とんぼ」

はたして「そば所」と呼ばれて褒められているものだろうか。
実は、そういう場所は、
厳しい生活という現実を背負っているわけだ。

そんなことを考えなくても、
この句は、白い蕎麦の花の上を、
赤とんぼが飛ぶという、
色彩豊かな秋の情景が目に浮かんでくるようだ。


●一茶という人は、継子(ままこ)でいじめられたり、
長い間遺産相続で争ったり、
子供達がみな幼くして亡くなるなど、
家庭的には不幸な生き方をしたそうだ。

でも、一度は江戸に出たとはいえど、
故郷をこよなく愛し続けたようだ。

 「そばの花江戸のやつらがなに知って」

はははっ、いいなあ、好きだなあ、
こういう意地を張る一茶って。

同じそばの花を見ても、
きれいな句を作った芭蕉や蕪村とは、
全く違った目を持っていたんだね。

そんなそばの花が実を付けて、
さあ、新そばの季節。
一面に白い花の咲く、そば畑の風景を思い浮かべながら、
そばをお手繰りあれ。

花魁(おいらん)の好んだ辛いそば汁

●紀伊国屋文左衛門 といえば、
江戸時代中頃に活躍した材木商人。
大もうけをして、派手に遊んだという話が伝えられている。
当時遊ぶといえば、江戸の吉原。
ここにはきれいな女性が揃い、
おいしい食べ物が、豊富にあったそうだ。

文左衛門は、そのころ二千人の遊女がいたといわれる、
この吉原の門を閉めさせ、
つまり、貸し切りにして、小判をばらまき、
豪華に遊んだので「お大尽」として、
江戸中の人々の評判となったそうだ。

さて、この紀伊国屋文左衛門 と張り合ったのが、
同じく材木商の、奈良茂こと奈良屋茂左衛門。
この人も、ずいぶんと派手な遊びをしたという。

こんな話が残っている。
ある時、奈良茂は、お気に入りの花魁(おいらん)に、
そばを二枚届けさせた。
一緒にいた友人が、
「おいおい、二枚だけということはないだろう。
 よし、俺が、この郭中の人に、そばを振るまってやるよ。」
そう言って、そば屋にそばを注文した。

ところが、そば屋は売り切れだという。
そこで、他のそば屋をあたって見るが、
どこも、そばはもう無いという。

実は奈良茂、
周りのそば屋のそばをすべて買い取り、
たった二枚だけを、花魁に届けたのだ。
つまり、
その日、江戸でそばを食べられたのは、
その花魁だけ、、、、
、、ということをしたんだね。

●吉原は、江戸にそばを広まらせた、
大切な場所の一つだったそうだ。
江戸で、はじめて「そば屋」が出来たのも、
この吉原なのだそうだ。
値段はべらぼうに高かったが、
新しいもの好きの人々に受けたらしい。

その後、
花魁の出世の行事などに、
そばを振る舞う習慣ができたりして、
江戸っ子の中にそばがしみ込んでいったわけだ。

さて、
吉原の三浦屋というところに、
几帳(きちょう)という花魁がいたそうだ。
この花魁、めっぽうそば好き。
そうして、この几帳のおかげで、
江戸のそば汁は辛くなったとか。

●この花魁、なかなか我がまま、
いや侠気のあった人だったそうだ。
店のものが、
「花魁、永田町の野田様のお座敷でお呼びです。」
と迎えに来ても、
「あの人は、イヤでありんす。」
と、自分の目に叶う客でないと、
断ってしまったそうだ。

それでも、気に入った客には、
いろいろと世話を焼くので、とても人気が高かったとか。
たいへんなそば好きで、ちょっと間があると、
すぐ、そばを手繰っていたという。
客がいろいろと贈り物をしようとすると、
着物以外はそばを贈ってくれと頼んだそうだ。

そうして、贈られたそばは、
店の他の女性達や、
働く下女下男にまで振る舞ったそうだ。
時には、身銭を払って、
同じように、そばを振る舞うこともあったとか。

年季明けの几帳の支払いは、
半分はそば屋へのものだったそうだ。
こういう気っぷの良さは、
「はり」があるといって、
「いき」とともに江戸っ子に好まれたとか。

●さて、この花魁の几帳。
そばを食べる時には、
辛い汁を好んだのだそうだ。

折しも、関東で作られるようになった醤油が、
江戸に広く出回るようになった時代らしい。
それまでの江戸では、「下りもの」と呼ばれていた、
関西から運ばれてくる醤油が上物とされていたという。

ところが几帳は関西の醤油で作った汁を好まなかった。
そして、
「そばを食べるには、辛い汁に限る。」
といって、関東の醤油で作った江戸汁を使った。
なにしろ、名の通った花魁が言うことなので、
それが江戸っ子の中にも広まっていったようだ。

かくして、そのころの江戸では、
辛い汁のことを、几帳の名を取って「几帳汁」とよんだそうだ。

●この人気の花魁を身請けしたのは、
最初に紹介した紀伊国屋文左衛門との話。

文左衛門は後年になって事業に失敗し、
最後は質素な暮らしの中にいたというので、
几帳ははたして、好きなそばを食べていられたのかは、
わからないのだ。

今でも東京の老舗のそば屋の汁は、
かなり辛めだ。
そんな辛い汁に当たった時には、
かって「はり」のある花魁がいたことを、
思い出してみたりしてみてはいかが。


 そばは食われて殻を残す。

● さて、長野はもう稲刈りの季節。
田んぼでは、稲がたわわに実っている。
今年は、天候にも恵まれて、
おいしいお米がたくさん穫れそうだ。

ところが、その米を横取りしようとするものがいる。
そう、バタバタと集団で飛んでくる雀たち。
そのために、稲の上にネットを張ったり、
キラキラ光るものを吊るしたり、
はたまた、数分置きに鉄砲のような音を出す装置を仕掛けたり、
と、農家の人は工夫している。

古くからの方法だと、
「かかし」を立てて人が居るようにみせたりした。
今でも、いかにも手作りの「かかし」を、
見かけることがあって微笑ましい。

さて、やはり長野では、そばの実も、
まもなく収穫の季節を迎えようとしている。
葉が落ちて、黒っぽい茶色の実が、
点々と塊になって、茎にぶら下がっている。
こちらも、雀に食べられないように、
ネットをかけたり、「かかし」を立てたりしなくては、、、、
という光景は、そば畑では見かけない。

雀は、米には群がるけれど、
そばの実には、見向きもしないのだ。

●私の小さな畑でも、
春に、豆の種を蒔く時には要注意。
畝を作って、豆を一カ所に3粒ぐらいずつ蒔いていく。
そして、ふと、振り返って見ると、
いつの間に鳩が数羽来ていて、
蒔いたばかりの豆を掘り起こしているのだ。
あわてて、追い立てる。

だから、豆を蒔くのは、鳥たちの目が利かなくなる夕方。
そして、すぐに、ネットで覆っておく。

ところが、そばを蒔く時には、
そんな気遣いは不要。
昼間から堂々と蒔いたって、
鳩もカラスも寄って来ない。
残った蕎麦粒を畑の隅に置き忘れたって、
一週間経っても、何の変化もないのだから。

そばの実は、
鳥たちには、まったくの不人気なのだ。


●そばの実は、三角形の固い殻で包まれている。
これが本当に固い、しっかりとした殻なのだ。
この殻があることが、
鳥たちの興味を惹かない一つの原因なのかもしれない。
 
でも、あの悪食のカラスさえ突こうとしない、
そばの固い殻を、
われわれ人間は、剥いて食べている。

とはいえ、このそばの殻を剥くのは、
けっこう難しい作業。
今でこそ、機械がやってくれるけれど、
昔は大変だったようだ。

家庭などでは、皮を剥かずに、
そのまま石臼で挽いて、
フルイにかけて、粉にならない殻の部分を、
取り除いていたそうだ。
今でも、田舎そばと呼ばれるものには、
そのようにして作られた粉を使っているものもある。

●そういう粉はともかく、
殻を取り除いて、粉にするのが、
一般的なそばの作り方。
私たちが、どんどんとそばを食べると、
やはり、どんどんと、そばの殻の山ができることになる。

さあ、このそば殻の使い方と言えば、、、、、

皆さんご存知ですね。

固くて湿気を含まない、
しかも安価なので、
盛んに使われた。
そう「そば殻まくら」としてね。

一時期は人気で、
日本で食べられるそばの殻だけでは間に合わず、
そば殻だけ中国から輸入するということも、
あったそうだ。

それが、今では、
音がうるさい、手入れが悪いと虫がわく、
値が安いので、店が儲からない、、、、
などの理由で、
あまり使われなくなってしまったという。

私は今でも「そば殻まくら」を使っているけれどね。
適当な固さだし、
夏でも、涼しくて具合がいい。

けれども、あまり売られているところを、
見なくなってしまったのは確かだ。

かくして、毎日大量に出るそば殻の、
行く場がなくなってしまったのだ。

●かくして、その硬さから、
鳥たちのクチバシから、
実を守っていた、そばの殻は、
いまや、産業廃棄物扱いになってしまった。

動物の飼料にはならないし、
堆肥にするには、固くてなかなか分解しない。
それでも、一部には、
炭に加工されて、「くん炭」として、
畑の土壌改良に使われているという話だ。

また、果樹園などでは、そば殻を蒔いておくと、
雑草が出にくくなるといって、
一面に敷き詰めているところもある。
私の畑でも、
瓜やカボチャのつるの延びる場所にそば殻を蒔いている。

そんなふうに使われるのはごく僅か。
今や、厄介者となってしまったそばの殻。
ところがねえ、今まで栄養分はないとされていたそばの殻にも、
実と同じぐらいのルチンや有効成分が含まれていることが、
最近、分かったらしい。

そのうちに、このそば殻から、
「からだを元気にするサプリメント」などと言うものが作られ、
大々的に売り出され、ブームになる、、、、、、、かも。




こんな風評被害があった。

○「困ったなあ。」
 そば屋の太兵衛さんが渋い顔をしている。
 「困ったなあ。」
 やはりそば屋仲間の弥太郎さんも、
 同じように眉間にしわを寄せて、相づちを打っている。
「どうしたものだろう。」
がらんとした店の中を見回しながら、
太兵衛さんが言うと、
「さあ、どうしたものだろう。」
と、弥太郎さんも、生気のない顔で答える。

隣り合わせで張り合って、
そば屋をやっていた二人だが、
今日は顔を突き合わせて相談している。
それほど、深刻な事態が起こっているわけだ。

場所は江戸、
時は安永二年(1773)のことだから、
今から240年前のお話となる。

二軒のそば屋が張り合っていたので、
かえって江戸中の評判となり、
客の切れることのなかった二人の店だった。
それが、
どうしたことか、両方の店ともに、
客がまったく来なくなってしまったのだ。
天気の加減かなと、はじめは思っていたのだが、
それが十日も続くと、そうも言っていられない。
奉公人たちは、手持ち無沙汰で、
うろうろしているばかりだ。


○そこへ、ひょいと入ってきたのが、
近くの小間物屋のご隠居。
「いやあ、ここも閑だねえ。
いまは、どこのそば屋も、まったく人の気配がないねえ。」
そういって、そばを頼んで手繰りあげる。

「まったく、ひどい噂が立っちまったものだ。
私なんざ、いつ死んでも構わないから、
こうしてそばを食べていられるがね。」
と、ご隠居さん。

そう、江戸の町に、
そばには毒があるとの噂が立ってしまったのだ。
それは、こんなものだ。

ーー綿の実を作った跡の畑で採れたそばに毒がある。
ーーそれを食べて死んだ人がいる。
ーー毒のあるのは、綿畑で作られてそばだが、それかどうかは、俺たちには判らない。
ーーだから、そばは食べない方がいい。

この噂は町中に広まり、
そばは、まったく食べられなくなってしまったのだ。

「それではこうしましょうか。」
太兵衛さんが切り出す。
「表に『綿畑で採れたそばは使っておりません』と、
張り紙を出しましょうか。」
弥太郎さんもそれがいい、ということで、
二店揃って、店先に張り紙をだした。
それでも、一向に効き目はなかったという。

ところが、「人の噂も七十五日」という言葉がある。
太兵衛さんと弥太郎さんが、「困った、困った。」を繰り返しているうちに、
ぼちぼちと、そばを食べる人が出てきた。
そして、三ヵ月もすると、
元の通りの繁盛となった。

ああ、よかったと、
胸を撫で下ろしたそば屋の太兵衛さんと弥太郎さん。
根拠のない噂は、
やっぱり、根を張らないものなのだ。

ところが、この噂、このままでは終わらなかったのだ、、、、。


○「困ったなあ。」
太兵衛さんの孫の小兵衛さんが渋い顔をしている。
「困ったなあ。」
そば屋仲間の、弥太郎さんの孫の弥三郎さんも、
眉間にしわを寄せている。

時は文化十年(1813)。
そば屋が、あらぬ噂に惑わされたその時から、
もう40年も経っている。
隣同士で張り合っていた二軒のそば屋は、
双方とも孫の代となっていた。

そして、またもや、
そばに毒があるという噂が、
江戸の町に広まったのだ。
そして、そば屋に客が寄り付かなくなった。

今度の噂はこんなものだ。

ーー田螺(たにし)の肥やしで栽培したそばに大毒がある。
ーーそのそばを食べて死んだ人が何人もいる。
ーーどれが田螺の肥やしで作ったそばか判らない。
ーーだから、そばは食べない方がいい。

「田螺というのは、田んぼにいるものだなあ。
 田で作られたそばは、
 山の畑で作られたそばに比べて味が落ちる。
 それをこじつけて、誰かがこんな噂を流したのではないかね。」
太兵衛さんは弥三郎さんにそう言う。
「そうだ、そうだ、そうに違いない。
 でも、困ったものだ。」


○そこへ、ひょいと入ってきたのが、
近くの小間物屋のご隠居。
「いやあ、ここも閑だねえ。
いまは、どこのそば屋も、まったく人の気配がないねえ。」
そう言って、そばを頼んで手繰りあげる。

「そう言えば、じい様が言っていたっけ。
昔も、そばに毒があるという噂が流れて、
そば屋さんは大いに困ったそうだ。
ところが、三ヶ月もすれば、そんな噂も忘れられて、
元に戻ったって。」
そのご隠居の言葉に、
顔を見合わせる小兵衛と弥三郎。
そう、そんな話を、
若い頃にじい様から聞いたことがある。

それではと、
「田螺(たにし)の肥やしで使ったそばは、
扱っておりません。」
と張り紙を出して、じっと我慢することにした。

ところが、
この時は、
二ヶ月経っても、
三ヶ月経っても、
そば屋に客は戻らなかった。
ついには、奉公人に暇を出し、
店仕舞いしたり、休業するそば屋が出始めたのだ。

これには奉行所も動き出した。
江戸の有名な医者に、
そばに毒がある根拠を問いただしたが、
医者は返事が出来なかったそうだ。
どのような内容か判らないが、
奉行所が「町触」を出したというから、
お上も放っておけなかったのだろう。

しかし、やっぱり人の噂である。
やがて「新そば」の張り紙がかかる頃になって、
ぽつりぽつりと、お客の姿が見えるようになった。
年の暮れになると、
威勢のいい江戸っ子の啖呵(たんか)が、
店の中を飛び回るようになった。

その姿を見て、
ほっと、胸を撫で下ろした小兵衛と弥三郎。
年が明ければ、
前の年の噂はどこへやら、
すっかり、元の通り、そば屋は繁盛したという。
この噂の真相は、
はっきりと判らないまま、
どこかへ消えてしまったようだ。


○情報の少なかった江戸時代、
今から200年前ごろは、
こんな噂で、そば屋は苦労をしていたのだねえ。

情報の発達した今の世の中では、
こんなことは、
まさか、、、、、、、
起こりませんよね?
いや、そうとも言えないかも。
どんな時でも、
胸を張って安心だといえるような、
そんな「そば」を作っていかなくては。