2025年03月

新宿の猫と、一杯飲んでみる。

コインロッカーの使い方がよくわからない。
支払いスペースの横に、
細かい字が書いてあるのだが、
天井の照明で光ってよく読めない。
反対側では、スカーフを髪にかけた、
アジア系の女性が、英語で書かれた、
説明書を読んでいる。

どうやら、緑色のランプのついたロッカーに、
荷物を入れて、それから、
この機械で手続きをするらしい。
で、緑色のランプのロッカーはと探せば、
ああ、かのスカーフの女性が、
小型のスーツケースを入れるところではないか。
あとは、全て、赤ランプ。
一番下の、大型トランク用のロッカーが空いていたと思ったら、
すぐに、埋まってしまう。

新宿駅の南口にある、
高速バスターミナル。
100個以上はあると思われるコインロッカーは、
全て使用中。
大型のスーツケースを脇において、
空くのを待っている外国人もいる。
そこを諦めて、
甲州街道ガード下のコインロッカーへ。
荷物を預けると、
出てくるのは、鍵ではなく、
何やら模様の入ったレシート。
出す時には、この模様を、
どこかに押し付けるらしい。
まったく、時代の変化に付いていけない。

旅に出ると、
世の中のシステムが、
大きく変わっていることを実感する。

高速バスのチケットは、
携帯電話に送られてきて、
その画面を示すだけ。
電車の切符は、
予約しておいた乗車券を、
機械で受け取る。
その紙の切符で改札を通ろうとしたら、
あれっ、入れる穴がない。
なんと、IC専用の改札機だって。
特急券は、やはり、携帯の画面に。
ホームで売店で、
飲み物を買おうとしたら、
無人のキャッシュレス専用レジ。

普段から、使っている方だったら、
なんの不便もないのだろうが、
何年かぶりに東京に出てくる身としては、
戸惑うばかり。

伊東からの帰り道。
ほかに用事のある女将と別れ、
高速バスの発車までの三時間弱を、
この新宿の街を一人で歩いて過ごす。
二十代前半まで、東京で暮らした私にとって、
新宿は懐かしい街だ。

だいたい、コインロッカーのある、
甲州街道のガード下の景色が違う。
今もあるはずなのだが、
このあたりは、馬のファンが集まるところで、
土日などは、大騒ぎだった。
そういう人を目当ての屋台が並んでいたっけ。

そこから入る武蔵野通りも、
まったく、違う風景。
大型の量販店と、さまざまな飲食店。
とにかく、夕方間近の時間だというのに、
歩く人が多い。
あれ、映画館、武蔵野館の大看板はどこへいったの。

それでも、懐かしい店、
ビアホールの銀座ライオンは健在。
突き当たって、新宿通りに出れば、
正面が紀伊國屋書店。
そして、左に曲がれば、
新宿中村屋、その先に高野フルーツパーラー。
この辺は変わらないね。

でも、あまりの人混みに、
やや、混乱気味。
静かな場所を求めて、
中村屋のビルに入って、
中村屋サロンへ。
入場料300円。
それで喧騒から離れた、
小さな、小さな、美術館へ。

新宿中村屋を始めた相馬愛蔵は、
長野県の安曇野の出身。
最初はパン屋だった中村屋を、
少しづつ大きくしながら、
しっかりとしたブランドに育てたのだね。
そして、多くの芸術家と交わり、
時に援助し、助けられたりしたのだ。
特に、彫刻家の萩原禄山(ろくざん)とは親交が深かった。
その話は、いくつかの小説の題材にもなっている。

そして、その禄山の代表作、
「女」が展示されていた。
それだけは写真を撮っていいというので一枚。
実は禄山は、相馬愛蔵の妻、国光(こっこう)に、
想いを寄せていたという。
安曇野には、禄山の美術館があるが、
若い時に訪れてから、この話を知った。

画像

サロンには、歌人でもあった、
会津八一の書があった。
中村屋の羊羹の上書きをしたのだ。
棟方志功が描いた包み紙もあった。

これだけの人混みの中から、
ほかに来る人もなく、たった一人で過ごしたサロン。
エレベーターを降りて、再び人混みの中へ。
このギャップはなんだ。

東口の広場に出れば、
大勢の人が、斜め上を見上げている。
アルタビルの大きな映像を見ているのかと思ったら、
その向こうに、大きな猫の映像が。
なんじゃこりゃ。
話には聞いていたが、
なかなかリアル感があって、
はっきりと見える。

リアルと言いながら、
本物の猫とは違う存在感があり、
よく作られている。
すごいなあ、
新宿という街は。
常に、新しいことに、
挑戦し続ける街なのだ。

画像

私が、紅顔の中学生だった頃まで、
ここから歌舞伎町方面に抜けた靖国通りには、
まだ、都電が走っていた。
東口の広場では、
裾の開いたジーンズを履いた、
長髪の若者たちが、
虚な目をしてシンナーを吸っていた。
西口では、
週末になると、反戦フォークソングの集会が、
自然発生的に広まり、
やがて、それを規制する機動隊と、
鬼ごっこをしていたっけ。

少しづつ、時代が動いて、
文化的な運動が盛んになった。
唐十郎は、神社の境内に赤テントを張って、
新しい芝居を始めた。
寺山修司も、劇場を離れ、
この街の路上を舞台に演じたものだ。
紀伊國屋の裏のジャズスポットで、
渡辺貞夫や日野皓正が熱い音を吐き、
歌舞伎町のカントリーバーでは、
ジミー時田やマイク真木が渋い声を聴かせた。

新宿文化劇場(のちのアートシアター)では、
先鋭的な映画が上映されていたし、
その横のミニシアターでは、
浅川マキが、あのしゃがれ声で歌っていた。
寄席の末廣亭では、
彦六(八代目林家正蔵)が、
か細い声で話し始め、
やがて、場内を圧倒していた。

アルタだって、
そこは二幸という、
食料品店のビルだったのだ。

えっ、知らない。
そうだろうねえ。
悔しかったら、70まで生きてみるとわかるよ。
記憶がだいぶ曖昧になっているけれど。

東口から、西口への地下道を通れば、
そこは、相変わらず、
ホームレスの方々の居場所。
西口に出て、ガード沿いに歩けば、
えっ、「思い出横丁」だって。
そんな名前で、
誰も呼ばなかったなあ。

画像

若い時に、よく通った店は健在。
まだ、午後4時台だというのに、
酒を飲む人たちで、
八割がたが埋まっている。
いくつかの背中をすり抜けて、
奥まった席へ。
隣の中年の二人のサラリーマンたちは、
すでに、出来上がっていて楽しそう。
逆の隣の、初老の紳士は、
こちらをチラチラとみて、
話しかけたがっていた様子だが、
私は、ノスタルジーに浸りたいのだ、
放っておいてくれ。

金もない、二十台前半の頃、
よく、この店で過ごしたものだ。
今でも、まだ苦手な、酒を飲みながらね。
でも、見渡してみれば、
島になったカウンターを囲んでいるのは、
ほとんどが、中年以降の年齢の方。
長く店を続けているということは、
それぞれの思い出を抱え込んでいるのだ。

この店が、
ある映画のワンシーンに映ったことがある。
ブラッドピットや役所広司の出る映画で、
ちょっと大切な気分を表現する場面だった。
映画館で見た時、
すぐ、この店だとピンときた。
それ以降も、内装も、外見も変わらずに、
そして、スタイルも変わらずに、
商売を続けているのだ。
すごいなあ。

高速バスの時間もあるので、
思いを切り捨てて、席を立つ。
横丁を歩けば、
派手な飾り付けをした店もある。
外国人が、かなり入り込んでいる。
昔からそうなのだが、
この横丁には、
だいぶ怪しい、いや、
値段の不確かな店もある。
ここは、スマホでは検索できない世界。
そういう店に、大当たりするのも、
横丁歩きの、醍醐味なのだ、、。

画像

西口の広場に出てみれば、
見慣れた小田急デパートの建物がなくなっている。
こらから、数年にかけて、
西口一体は、
大規模な再開発が行われるらしい。
街は、私があくびをして、
ボケーとしている間に、
どんどんと変わっていくのだ。

考えてみたら、この西口だって、
柵に囲まれた草原だった。
それが、栄養の悪いタケノコのように、
ニョキニョキと、高いビルが、
空に向かって聳えていったのだ。

人は、四角四面のビルの中だけでは、
生きられないのだろうなあ。
高いビルは、深い影を作り、
隠れたところに、
雑多な交わりの場所を育む。
そういう雑然とした世界の中で、
新しい考え方や文化も、
生まれてくることだろう。

だから、この街、
新宿は魅力的なのだね。
私も、たまには、
足を運ぶように心がけよう。
硬くなり始めた頭を、
解きほぐすようにね。

画像