手打ちそば屋は眠れない

新宿の猫と、一杯飲んでみる。

コインロッカーの使い方がよくわからない。
支払いスペースの横に、
細かい字が書いてあるのだが、
天井の照明で光ってよく読めない。
反対側では、スカーフを髪にかけた、
アジア系の女性が、英語で書かれた、
説明書を読んでいる。

どうやら、緑色のランプのついたロッカーに、
荷物を入れて、それから、
この機械で手続きをするらしい。
で、緑色のランプのロッカーはと探せば、
ああ、かのスカーフの女性が、
小型のスーツケースを入れるところではないか。
あとは、全て、赤ランプ。
一番下の、大型トランク用のロッカーが空いていたと思ったら、
すぐに、埋まってしまう。

新宿駅の南口にある、
高速バスターミナル。
100個以上はあると思われるコインロッカーは、
全て使用中。
大型のスーツケースを脇において、
空くのを待っている外国人もいる。
そこを諦めて、
甲州街道ガード下のコインロッカーへ。
荷物を預けると、
出てくるのは、鍵ではなく、
何やら模様の入ったレシート。
出す時には、この模様を、
どこかに押し付けるらしい。
まったく、時代の変化に付いていけない。

旅に出ると、
世の中のシステムが、
大きく変わっていることを実感する。

高速バスのチケットは、
携帯電話に送られてきて、
その画面を示すだけ。
電車の切符は、
予約しておいた乗車券を、
機械で受け取る。
その紙の切符で改札を通ろうとしたら、
あれっ、入れる穴がない。
なんと、IC専用の改札機だって。
特急券は、やはり、携帯の画面に。
ホームで売店で、
飲み物を買おうとしたら、
無人のキャッシュレス専用レジ。

普段から、使っている方だったら、
なんの不便もないのだろうが、
何年かぶりに東京に出てくる身としては、
戸惑うばかり。

伊東からの帰り道。
ほかに用事のある女将と別れ、
高速バスの発車までの三時間弱を、
この新宿の街を一人で歩いて過ごす。
二十代前半まで、東京で暮らした私にとって、
新宿は懐かしい街だ。

だいたい、コインロッカーのある、
甲州街道のガード下の景色が違う。
今もあるはずなのだが、
このあたりは、馬のファンが集まるところで、
土日などは、大騒ぎだった。
そういう人を目当ての屋台が並んでいたっけ。

そこから入る武蔵野通りも、
まったく、違う風景。
大型の量販店と、さまざまな飲食店。
とにかく、夕方間近の時間だというのに、
歩く人が多い。
あれ、映画館、武蔵野館の大看板はどこへいったの。

それでも、懐かしい店、
ビアホールの銀座ライオンは健在。
突き当たって、新宿通りに出れば、
正面が紀伊國屋書店。
そして、左に曲がれば、
新宿中村屋、その先に高野フルーツパーラー。
この辺は変わらないね。

でも、あまりの人混みに、
やや、混乱気味。
静かな場所を求めて、
中村屋のビルに入って、
中村屋サロンへ。
入場料300円。
それで喧騒から離れた、
小さな、小さな、美術館へ。

新宿中村屋を始めた相馬愛蔵は、
長野県の安曇野の出身。
最初はパン屋だった中村屋を、
少しづつ大きくしながら、
しっかりとしたブランドに育てたのだね。
そして、多くの芸術家と交わり、
時に援助し、助けられたりしたのだ。
特に、彫刻家の萩原禄山(ろくざん)とは親交が深かった。
その話は、いくつかの小説の題材にもなっている。

そして、その禄山の代表作、
「女」が展示されていた。
それだけは写真を撮っていいというので一枚。
実は禄山は、相馬愛蔵の妻、国光(こっこう)に、
想いを寄せていたという。
安曇野には、禄山の美術館があるが、
若い時に訪れてから、この話を知った。

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サロンには、歌人でもあった、
会津八一の書があった。
中村屋の羊羹の上書きをしたのだ。
棟方志功が描いた包み紙もあった。

これだけの人混みの中から、
ほかに来る人もなく、たった一人で過ごしたサロン。
エレベーターを降りて、再び人混みの中へ。
このギャップはなんだ。

東口の広場に出れば、
大勢の人が、斜め上を見上げている。
アルタビルの大きな映像を見ているのかと思ったら、
その向こうに、大きな猫の映像が。
なんじゃこりゃ。
話には聞いていたが、
なかなかリアル感があって、
はっきりと見える。

リアルと言いながら、
本物の猫とは違う存在感があり、
よく作られている。
すごいなあ、
新宿という街は。
常に、新しいことに、
挑戦し続ける街なのだ。

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私が、紅顔の中学生だった頃まで、
ここから歌舞伎町方面に抜けた靖国通りには、
まだ、都電が走っていた。
東口の広場では、
裾の開いたジーンズを履いた、
長髪の若者たちが、
虚な目をしてシンナーを吸っていた。
西口では、
週末になると、反戦フォークソングの集会が、
自然発生的に広まり、
やがて、それを規制する機動隊と、
鬼ごっこをしていたっけ。

少しづつ、時代が動いて、
文化的な運動が盛んになった。
唐十郎は、神社の境内に赤テントを張って、
新しい芝居を始めた。
寺山修司も、劇場を離れ、
この街の路上を舞台に演じたものだ。
紀伊國屋の裏のジャズスポットで、
渡辺貞夫や日野皓正が熱い音を吐き、
歌舞伎町のカントリーバーでは、
ジミー時田やマイク真木が渋い声を聴かせた。

新宿文化劇場(のちのアートシアター)では、
先鋭的な映画が上映されていたし、
その横のミニシアターでは、
浅川マキが、あのしゃがれ声で歌っていた。
寄席の末廣亭では、
彦六(八代目林家正蔵)が、
か細い声で話し始め、
やがて、場内を圧倒していた。

アルタだって、
そこは二幸という、
食料品店のビルだったのだ。

えっ、知らない。
そうだろうねえ。
悔しかったら、70まで生きてみるとわかるよ。
記憶がだいぶ曖昧になっているけれど。

東口から、西口への地下道を通れば、
そこは、相変わらず、
ホームレスの方々の居場所。
西口に出て、ガード沿いに歩けば、
えっ、「思い出横丁」だって。
そんな名前で、
誰も呼ばなかったなあ。

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若い時に、よく通った店は健在。
まだ、午後4時台だというのに、
酒を飲む人たちで、
八割がたが埋まっている。
いくつかの背中をすり抜けて、
奥まった席へ。
隣の中年の二人のサラリーマンたちは、
すでに、出来上がっていて楽しそう。
逆の隣の、初老の紳士は、
こちらをチラチラとみて、
話しかけたがっていた様子だが、
私は、ノスタルジーに浸りたいのだ、
放っておいてくれ。

金もない、二十台前半の頃、
よく、この店で過ごしたものだ。
今でも、まだ苦手な、酒を飲みながらね。
でも、見渡してみれば、
島になったカウンターを囲んでいるのは、
ほとんどが、中年以降の年齢の方。
長く店を続けているということは、
それぞれの思い出を抱え込んでいるのだ。

この店が、
ある映画のワンシーンに映ったことがある。
ブラッドピットや役所広司の出る映画で、
ちょっと大切な気分を表現する場面だった。
映画館で見た時、
すぐ、この店だとピンときた。
それ以降も、内装も、外見も変わらずに、
そして、スタイルも変わらずに、
商売を続けているのだ。
すごいなあ。

高速バスの時間もあるので、
思いを切り捨てて、席を立つ。
横丁を歩けば、
派手な飾り付けをした店もある。
外国人が、かなり入り込んでいる。
昔からそうなのだが、
この横丁には、
だいぶ怪しい、いや、
値段の不確かな店もある。
ここは、スマホでは検索できない世界。
そういう店に、大当たりするのも、
横丁歩きの、醍醐味なのだ、、。

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西口の広場に出てみれば、
見慣れた小田急デパートの建物がなくなっている。
こらから、数年にかけて、
西口一体は、
大規模な再開発が行われるらしい。
街は、私があくびをして、
ボケーとしている間に、
どんどんと変わっていくのだ。

考えてみたら、この西口だって、
柵に囲まれた草原だった。
それが、栄養の悪いタケノコのように、
ニョキニョキと、高いビルが、
空に向かって聳えていったのだ。

人は、四角四面のビルの中だけでは、
生きられないのだろうなあ。
高いビルは、深い影を作り、
隠れたところに、
雑多な交わりの場所を育む。
そういう雑然とした世界の中で、
新しい考え方や文化も、
生まれてくることだろう。

だから、この街、
新宿は魅力的なのだね。
私も、たまには、
足を運ぶように心がけよう。
硬くなり始めた頭を、
解きほぐすようにね。

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昭和初めの、文化財の宿に泊まった伊東。

伊東の駅は、
海に近いことを知っていた。
東京に住んでいた若い頃に、
日帰りで泳ぎに来た覚えがあるからだ。
だから、電車から降りれば、
海の香りがするかな、、
と思っていたのだが、
クンクンクン、
そんなことはない。

今は真冬の真っ只中。
最も海の香りのない季節だ。

ならば、
町中のいたる処に湧き出している、
豊富な温泉の匂いがするかと思えば、
クンクンクン、
そんなこともない。
このの湯は透明で無臭なのだ。
草津や渋みたいに、
街に入ったとたん、
温泉らしい硫黄の匂いが鼻をつくわけではない。

昭和の時代には、
おそらく旅館の名の入った送迎バスで溢れていただろう。
のぼり旗を持った、はんてん姿の番頭さんたちが、
電車の着くごとに、予約のお客さんを迎えたいたことだろう。
そんな、どこでもあった温泉町の駅前の風景は、
今は昔。
閑散としたロータリーで、
タクシーの運ちゃんが、大欠伸をしている。

そんな伊東駅前は、
いかにも、これから三日間の休みを送るのにふさわしい、
のんびりとした雰囲気なのだ。
冬だというのに、寒さを感じさせない、
この空気感がいい。
やっと取れた、遅ればせの正月休みを、
暖かなところで過ごしたい、、。
そんな、ジジイ、ババア臭い発想で、
風の冷たい長野からやってきた。

泊まった宿が、
昭和の初めに建てられたという、
木造三階建の古い旅館。
なんと、国の登録文化財になっている。
そこが、いまは、ゲストハウスに。

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その入り口の雰囲気からすばらしい。
お寺の入り口のような、
彫り物の入った屋根。
入り口のガラスの引き戸には、
以前の宿の名が金文字で入っている。
中に入れば、けやき張りの広い廊下が。

部屋は三階の一番奥の突き当たり。
その階段が、複雑に入り組んでいるあたりが、
古さを感じさせる。
館内の表示は横文字ばかり。
そう、本来は、外国人向けのホステルなのだ。

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夕方、一階の共有スペースで、ビールを飲んでいたら、
大きな荷物を持った外国人たちが、
続々と入ってくる。
その半分ぐらいはアジア系の旅行者だ。
外国人のスタッフもいて、
英語で、一通りの説明を受けた後、
鍵をもらって、それぞれの部屋に入っていく。

彼らに、この日本の古い建物は、
どのように写っているのか。
古い畳の部屋に、
自分で布団を敷いて眠るのだ。
私たちには当たり前だけれど、
貴重な体験ができるに違いない。

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地下に温泉の浴場がある。
それほど大きくはないが、
ここだけは、新しく改装されていて、
大理石張りの壁に囲まれた、
モダンな浴室だ。
分福茶釜の湯口から出る湯は、
もちろん源泉掛け流し。
加水も加熱もしていないそうだが、
熱くも、温くもなく、匂いもなく、
気持ちのいい湯だ。

あれだけの外国のお客さんが来たのだから、
さぞ、混んでいるだろうなあと思ったら、
いつも一人でゆっくり入れる。
たまに、外湯めぐりの日本のおじさんがいたが、
外国人とは会わなかった。
そうか、外国の人には、
こういう大風呂に入る習慣はないのだろう。
赤の他人と、裸で向き合うことはないのだ。

でも、2箇所ある小さな湯船の貸切風呂には、
いつも使用中の札が掛かっていたから、
こちらを使うのだね。

古い木造の建物だ。
これだけの人が泊まれば、
さぞ、音が響いてうるさいだろうなあ、
と覚悟していたのだが、
とても静かだった。
部屋には、耳栓が用意されていたにも関わらず。

外国の人たちも、廊下や階段を、静かに歩くし、
行きあえば、軽く目で挨拶をする。
スタッフが気を遣っているのかもしれないが、
共用のキッチンも、いつも綺麗に片付いている。
皆さん、この古い建物の宿にリスペクトの念を、
しっかりと持たれている気がする。

かえって、我々日本人の方が、
それを忘れているのではないだろうか。

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70歳というジジイになると、
旅館に泊まるのが怖くなる。
人的サービスが有り余っていた昔ならともかく、
最近の旅館は制約が多い。

その一番は、夕食だ。
これでもかと、テーブルにいっぱいの料理を並べてある。
見た目は綺麗かもしれないが、
普段は夕食を軽くしている私たちには、
それを、見ただけで腹一杯になる。
しかも、私の世代の常として、
料理は残してはいけない、、
というバイアスが入ってしまうのだ。ふう。

一晩かけてお召し上がりくださいというならいいが、
たいていは、苦手な酒を、
無理して味わう暇もなく、
1時間ほどで、部屋に追い払われる。
朝食なんぞ、8時からですと一方的に言われ、
5時に朝風呂を浴びた後の時間を持て余す。
仕方ないので、自動販売機にある飲み物を、
いやいやながら、飲んで待っていると、それでも足りず、
もう一つ、もう一つと飲んでるうちに出来上がって、
朝飯を食った後に眠くなる。
えっ、それで10時が追い出し時間、いやチェックアウトだって。

だから、山の中の宿ならともかく、
ほかに食事の取れるところがあるのなら、
素泊まりの方が気楽なのだ。
まして、このようなゲストハウスは、
自由に使えるキッチンがあるのが嬉しい。
近くのスーパーで、
静岡名物「黒はんぺん」なんぞを買ってきて、
朝食に焼いて食べる。
もちろん、冷蔵庫には、
自分の名前を大きく書いた、
缶ビールを入れておく。

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その宿の隣も、
やはり、昭和の初めに建てられた元旅館で、
似たような外見だ。
こちらは、伊東市の博物館になっていて、
昔の旅館文化を伝えている。
床柱や、明かり障子などに、
独特の意匠を凝らした部屋が残っている。
大勢いたという、芸者を呼んで、
宴会をしたという大広間も残っている。
ここでは、今でも、芸者の講習会が開かれているという。
それも、観光客向けに。
その会場となっているようだ。

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若い人には、
ボロ宿にしか見えないかもしれないが、
昭和の高度成長の前の世界を知っている、
まだ死にかけないジジイには、
懐かしく、
気持ちを落ち付かせる宿なのだ。

夜になれば、
古賀政男のギターの音色なんぞを、
頭の中に響かせながら、
街を歩いてみる。
たしか「湯の町エレジー」って、
伊豆が舞台だったよね。

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表通りから外れて、
暗い路地にポツンと灯の入る、
小さな居酒屋に入ってみれば、
なんと、地元の人たちで大賑わい。
後から入ってきた人が断られていたから、
カウンターに座れた私たちはラッキー。

刺身を頼んでみれば、
山国の長野とは、
全く次元の違うものが出てくる。
ううん、冬のメジは美味いなあ。

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しかも、静岡の銘酒が、
それも、純米吟醸クラスの酒が並んでいるので、
苦手なお酒を克服するべく、
不本意ながら、徳利を傾ける、、、。
次の日も、夜はこの店に、、。

という、
伊豆の伊東での三日間。
のんびりと、気楽に過ごせたかな。

湯めぐりの伊豆、伊東

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海から昇る朝日を見ながら、
温泉に浸かることができる。
そう聞いて、5時半に宿を出た。

真っ暗な海沿いの国道を歩くこと30分、
目指す温泉施設に行き着いた。
海はまだ暗い。
水平線のあたりが、少し明るくなっているが、
雲のせいか、ぼんやりとしている。

そこは、伊東マリンランドと呼ばれる、
観光客向けの大型施設だ。
その一角に、その名も「朝日の湯」という、
温泉があるのだ。
私たちは、伊豆半島の伊東に来て、
三日目の朝を迎えるところだ。

入場料を払って二階に登ると、
風呂の入り口に「本日の日の出」、
6時48分と書かれている。
しまった、早すぎた。
まだ6時になったところだ。

隣のレストランは6時からの営業とのことで、
開店準備をしている。
さっと風呂に入って、ここでビールでも飲みながら、
朝日を拝むか。

風呂に入って驚いた。
先客が10人近くいる。
もっとも、かなり広い浴槽なので、
そのくらいならばガラガラなのだが。

ほとんどの人が、
ぼんやりと窓の方を見ながら、
湯に浸かったり、椅子に腰掛けている。
その窓は、湯気で曇っていて、
果たして、夜明けの薄明かりなのか、
すぐ下の、ヨットハーバーの明かりなのか、
よくわからない。
しかし、東の海に向いているので、
晴れていれば、これから、朝日が差し込むことだろう。

なにやら、身体も心も弛緩しきっている老人たちの中に、
自分も吸い込まれそうな気がして、
早々に、湯を上る。
そうしたら、女将はすでに上がっていて、
女湯には誰もいなかったという。
朝6時に暇にしているのは、ジジイばかりのようだ。

レストランでは、ちゃんとしたアジの干物定食が食べられる。
釜揚げしらす丼も。
もちろん、生ビールもね。

昨日も、宿の近くの公園に、朝日を眺めに行った。
そこには伊東を拠点に制作を続けている、
重岡健治さんの作品が並んでいる。
彼の重厚な彫刻と、海の風景は、よく似合っていそうだ。
だが、雲が多いのと、その場所からは、
朝日は、海からではなく、山から昇るようだった。

今日は、くっきりと、
海から昇る朝日を見たい!
予報も快晴。

そう思って、
早起きをして、歩いて、ここまできたのだ。
ところが、レストランの窓越しに、
ヨットハーバーの上から出た朝日は、
なんともふてぶてしい。

まるで、独身最後の日のどんちゃん騒ぎのあとのような、
二日酔いの目をしていた。
あるいは、眠たくてしょうがない子猫が、
無理やり起こされて、
仕方なしに半分目を開けたような、
そんな太陽だった。

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高い山に登って、山小屋に泊まった時、
そこから見る朝日は素晴らしい。
その陽が、山々の頂を照らし始める時、
まるで、ベートーベンの五番が響くようだ。
茜に染まる雲を従えて、
これから1日の始まりを、
神々しく伝えるのだ。

それに比べて、
この日の出はなんだ。
時間が来たので、
仕方なしに出ました。
まるで、出来損ないのサラリー、、、
いや、彼らだって大変なのだ。
たまたま今日が、
そんな気分だっただけなのかもしれない。

そうなれば、こちらも気分を変える。
一度、宿に戻る予定を棄て、
伊東駅から電車に乗って、
波打ち際にあるという露天風呂に向かう。

30分の乗車で降りたのは、
伊豆北川駅。
これ、「いずほっかわ」と読むのだね。

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露天風呂は10時からと聞いていたから、
まだ一時間以上。
仕方がないので、海を望む公園があるというので、
急な坂を登ってみる。
展望は樹木に囲まれて、大したことはない。
大島が、海鼠みたいにぼんやりと横たわっている。
城ヶ崎海岸の、切り立った崖が見え、
その上に、丸い山頂の大室山が、
トトロの頭のように、
ニュウと突き出している。

晴れの予報だが、
全体に雲が薄くかかっているような感じ。
だが、春のような、
艶かしさはない。

でも、広場を見渡せば、
周りに立派な桜の木が。
花見には賑わう場所なんだなあ。

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小さな港まで降りて、
海沿いの堤防を歩いていく。
海の反対には、
6、7階はある、
高級そうなホテルが並んでいる。
なるほど、部屋の窓からは、
すぐ前が海、
最上階の露天風呂からは、
それを楽しめるというわけだ。

この堤防の道は、
ムーンロードと名付けられている。
ここも東向きの海に面している。
時として、素晴らしい朝日が眺められるはずだ。
なぜ、サンライズではないのか。

なんて、言いながら、
せっかく休みに来て、
朝日の昇る時間に起きる奴がいるかと気がついた。
そんなことを喜ぶのは、
私のような、むこう向きのジジイだけだ。
まして、夏の暑い太陽に照らされながら、
コンクリートの堤防道路を歩く辛さは、
容易に想像できる。

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んなことを考えながら着いた、
黒根岩風呂。
入り口で700円なりを払って、
階段を降れば、
まさに波打ち際。
簡単に囲っただけの脱衣場。
中に入れば、先客が二人。
直径5メートルぐらいの、
岩で囲まれた湯船が二つある。

湯気の具合で熱いかと思ったが、
それほどでもなく、
ゆったりと入れる。

そして、確かに目の前が海。
まさに、目の高さに海があるのだ。
これは初めての経験。
目の前の岩に、
波が砕けている。
波の荒い時はどうするのか。

実は、この湯は、
荒波に何度も飲み込まれ、
その都度に、
地元の人たちの協力によって、
作り直されてきたらしい。
だから、脱衣所だって、
こんな造りなのだ。
いざとなったら、
波に飲みこまれる覚悟で、
入る湯なのだ。

だいたい、伊豆半島は、
数千万年前、南から流れてきたのだそうだ。
ぷかぷかと浮いてきたのではない。
フィリピンプレートというものに乗り、
日本列島に、ドスンとぶつかってきたそうだ。

その勢いで、地面が歪んで、
丹沢などの山ができた。
富士山などは、その後に出来た、
新しい山らしい。
いまだに、この伊豆半島の、
日本列島への働きかけが続いているのだね。

だから、伊豆には、温泉が豊富だ。
場所によって微妙に温度も質も違うらしい。
北川から一つ先の熱川では、
ゆで卵ができるぐらい熱い湯がでる。
宿にした伊東では、50度前後の、
なめらかな湯がでる。
ここの宿の湯もいいが、
割引券をもらって行った、
他の旅館の湯は、
ややアルカリが高くて、
肌がスベスベする。

伊東市内には、
地元の人向けの銭湯のような温泉が、
数多く見受けられた。
どこも、違う源泉を持っているようだ。
豊富な湯が出るということは、
目に見えない、
地の中に、熱いものを抱えているからだろう。

そんな伊豆半島の特徴に、
深い海を持っていることがある。
海岸から海に出れば、
すぐに、ぐっと深くなるのだ。
だから、本来は深海に棲む金目鯛などが、
伊豆の名物になる。

この黒根岩風呂から見る海も、
波は直前になって崩れる。
遠浅になっていない証拠だ。
ということは、、、。

深い海に住む、ゴジラが顔を出してもおかしくはない。
ゴジラの体を隠すぐらいの深さはありそうだ。
目の前に、にゅうと、顔を出して、
こちらを睨んだりしないだろうか。
期待して海を見つめていたのだが、
そのうちに、湯にのぼせてしまった。
忙しいのだろうなあ、ゴジラ君も。

そんなことで過ごした、
伊東の三日間。
あっという間に過ぎてしまった。

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恥ずかしがり屋の天狗岳へ

ええい、
晴れろ、晴れろ。
チチンプイプイ、キリよ晴れろ!

九月初めの八ヶ岳、
天狗岳へ続く稜線。
ノロノロ台風も、
もういなくなるだろうと思っていたのに、
この、モヤモヤとした天気はなんだ!

東天狗岳頂上まで、あと、30分もかからない。
なのに、私たちは躊躇していた。
また登っても、霧に包まれて、
何も見えないのではないか。

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山頂から、硫黄岳はおろか、
赤岳や阿弥陀岳も望めないのではないか。

宿泊した本沢温泉から、
急な山道を登って、
この稜線にやっと辿り着いたところ。
隣には、もうこれ以上登りたくないオーラを発している誰かがいる。

半ズボン姿の、若い人たちが、
楽しげに話しながら、稜線のガスの中に消えていく。

岩に腰掛けて、迷うこと15分。
ついに私たちは、イソップの狐となる。

どうせ登っても、何も見えないさ。

登るつもりだった天狗岳に背を向けて、
緩やかな登りの根石岳に歩を進める。

実は、四年ほど前、同じ時期に、天狗岳に登っている。
その時は、西天狗方面から登ったのだが、
東天狗山頂は、猛烈な東風とガスで、
立っていられないほどだった。
ただ、山頂の標識を確認しただけで、
風に煽られないように、
短い鎖場を降り、岩場を下った。

寒くはないが、風で体温が奪われるので、
荷物が吹き飛ばされないようにしながら、
ウインドブレーカーを身につけた。
そして、この白い砂が敷き詰められたような稜線を、
登山道沿いに張られた、
緑色のロープを手掛かりに、歩いたのだ。

その時の、必死の思いを浮かべながら、
根石岳まで来て、ふと振り返ると、
なんだ、この光景は。

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東天狗も、西天狗も、
綺麗に晴れ上がっているではないか。
先ほど登って行った若者たちが、
山頂に立っているのが見える。
ああ、運命の神様。
私はあなたを、くすぐり倒したい。

ということで、
すぐ近くの根石山荘で、
仕方がなしに、私の苦手なビール。
四年前、強風と深いガスの中で、
この山小屋の看板を見つけた時に、
どれだけ、ほっとしたことか。

標高2500メートルに、
こういう山小屋があるのは素晴らしい。
ここで、西天狗岳をを眺めながら、
手作り感あふれる、ビーフシチューなどをいただく。

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でも、食事を終わって山小屋をでると、
山はまた、ガスに包まれていた。
おまけに、ぽつりぽつりと、当たり始めていたりしてね。

今回は、歩かなければ辿り着けない温泉、
本沢温泉に一泊の予定だった。
でも、すぐ真上に天狗岳があるではないか、
ぜひ、リベンジしたい、
ということで連泊。

ここは、日本一高いところにある露天風呂で有名。
でも、ご覧の通り、脱衣所も何もない場所。
本沢温泉の建物から、10分ぐらい登ったところにある。

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私たちの行った時には誰もいなくて、
チャンスと思ったのだけれど、
湯に手を入れてみたら、かなり熱い。
ちょっと入れないぞと思ったが、
それでもと思って入ってみた。

少しでも動くと、ピリピリとする熱さ。
でも、こういう色の温泉にしては、
上がっても、さっぱりとした泉質だ。

一緒に行った誰かさんは、
足をつけただけで、熱い!と言って入らなかった。
後で聞いたが、板で掻き回すと、少しは入りやすくなるとのこと。

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本沢温泉には、内湯もあり、
こちらは茶色く濁った、別の泉質。
こちらもいいお湯だ。
山小屋なので、8時に消灯だが、
その後、ヘッドランプを点けて、
入るのも乙なもの。

食事は簡素にして十分な、
山小屋のらしいもの。
北アルプスで食べさせられるカレーライスより、
よっぽど気が利いている。
食堂の外に、小鳥の餌台があり、
綺麗な色の「ウソ」が。

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なのに、お酒は充実している。
私は苦手なのだが、
少しでも山小屋の売上にと、
頑張って試して見る。

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そして、山を下る三日目の朝。
なんと、空は綺麗に晴れ渡っているではないか。
どうして、私たちには、
この青空が付いてこないのだろう。
これから、硫黄岳と天狗岳に登るのだ、
というご夫婦を、羨ましく、見送った。

稲子湯登山口まで、
普通は2時間半ぐらいの道を、
私たちは、4時間以上かけてゆっくりと下った。
途中のみどり池からは、
昨日登りそこなった天狗岳が、
くっきりと望める。
またいつか、
というのは、もう70歳を過ぎた私たちには、
ないかもしれない。
だから、その姿を、くっきりと目に焼き付けておくのだ。

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本沢温泉までなら、
もう一度来られるかなあ。

スペイン語は会話帳のカタカナ読みで通じた。

この春に、スペインの巡礼路を、
三週間ほど歩いてきたが、
心配だったのは、コミュニケーションの問題。

巡礼路は、人里離れた田舎町ばかりで、
会うのは動物の方が多い。
通りがかった牛舎の中では、
牛がモオーと鳴くし、
羊たちは、瞳を細くして、
メエ〜〜と声をあげる。

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ニワトリは、コッ、コッ、
コケコッコ〜と雄叫びをあげるし、
門番の犬は、ワォンワォンと吠え立てる。
猫は人懐っこくて、手を見せると寄ってきて、
ニャオ〜っと甘えてきたりする。
バルの椅子に寄ってくるスズメも、
チュンと鳴いてすましている。

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なんだ、スペインと言ったって、
日本と同じじゃないか。
出会った動物たちは、
皆、同じように鳴いている。
スペインの猫が、スペイン語で鳴くわけでもない。
ただ問題なのは、人間と話すときだけだ。

スペインでは、もちろん、スペイン語が話されている。
ところが、この国にも、地方によって、
様々な言葉が話されたりする。
今回の旅でも出会った、バスク語やガリシア語は、
方言の枠を超えて、全く別の言葉のように感じる。
だけど、やはり共通語はスペイン語。
私は、この言葉を勉強してきてはいるが、
なにしろ、普段は使う機会もないし、聞く機会も少ない。
覚えるよりも、忘れる方が多い歳になってしまったようだ。

 

二十代中頃に、ヨーロッパを二ヶ月余り放浪した。
その時に、初めて、スペインという国に足を踏み入れたのだ。
なにしろ、今より弱い円を持っての貧乏旅行。
スイス、オランダの物価の高さに仰天。
ユースホステルで、買ってきたパンを齧って過ごしていた。
その時、他の国のバックパッカーから、
スペインは安いよ、という話を聞いて、
フランスを縦断して、スペインに入ったのだ。

そうしたら、私の予算でも、
安宿の個室に泊まり、レストランで二度の食事ができる。
しかも、ワイン付きでね。
そうして、スペインの南の果てまで、
巡って歩くこととなった。

何よりも嬉しかったのが、
会話が通じたことだ。
えっ、スペイン語を知っていたのかって、
そうではない。

その時に持ち歩いていたのが、
ヨーロッパを歩くバックパッカーに人気のあった、
六カ国語会話集という、小さな本。
日本語の見出し表現の後に、
英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、
そして、スペイン語の言い回しが載っている。
親切なことに、
その各国の本来の文章に、
カタカナのルビが振ってあるのだ。

だから、
ホテル(らしきところ)に行って、
「キエロ・ウナ・アビタシオン」といえば、
ホテルの人は、すぐに察して、
安い部屋に案内してくれる。
一日中開いているバルというところへ行って、
「ウナ・カニャ」と、本を読めば、
ちゃんとグラスに注がれたビール が出てくるのだ。

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スペインでは、会話集をカタカナ読みしだけで、
意味が通づる。
これは驚きだった。
フランス語や英語では、
カタカタ読みは、まず通じないと思った方がいい。
フランスのホテルの部屋の電気が消えた時、
それを伝えるのに、どんなに苦労したか。
会話集を放り出し、とにかく部屋まで来てもらった。
オランダのカフェで、一杯のオレンジジュースを頼むのに、
何回、下手な英語を繰り返したことか。

なのに、スペインでは、
会話集を読むだけで、
まあ、飲む、食う、寝る、動くことができたのだ。

いつかこの国の言葉を覚えたいものだ。
人々の優しい会話であふれかえる、
バルのカウンターでワインを飲みながら、
若き日の私は、そう思ったのだ。

、、、それがいけなった。

当時、長野でスペイン語を学ぶといえば、
ラジオ講座ぐらいしかなかった。
だけど、一人で、何の予備知識もなく、
新しい言葉を学ぶのは、とても難しいことなのだ。
皆さんも、ご経験があることだろう。

何年かして、長野の英会話学校で、
スペイン語クラスを始めると聞いた。
しめた、これで本格的にスペイン語が勉強できるぞ、
と思って、早速申し込み。
初日のクラスには、狭い教室に、
なんと、20人近くの生徒が集まっていた。
嬉しかったね。
今まで孤独に、
ただラジオと向き合っていたのに、
こんなに仲間がいたんだ。

でも、そう喜んだのも、束の間だった。

という話は、また今度、、。

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雪の峠を越えて〜スペイン、サンティアゴ巡礼

あれ、雪に変わってしまった。
これはどうしよう。

スペイン、
カミーノ・デ・サンティアゴの巡礼の道を、
アストルガという街から歩き始めて二日目。
その日は、標高1500メートルの峠を越えて、
17キロ先の町まで行く予定だった。
でも、宿泊したアルベルゲ(巡礼宿)を出て、
1時間もしないうちに、
降り続いた雨に、雪が混ざるようになった。

道は農道のような平らな道から、
坂の急な山道となっている。
しかも、真ん中を、降ったばかりの雨が、
勢いよく流れているので、
靴を濡らさないようにしなくては。

林の中を少し進めば、
片屋根のついたベンチがあり、
ここで雨具のまま一休み。
他に歩いている人もいない。
とにかく、前に向かって、
歩くより他はないのだ。

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さらに、進んでゆけば、
湿った雪が、容赦なく積もってくる。
森を抜け、舗装道路に出た頃には、
もう15センチ以上となっている。
しかも、強い風だ。

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やっと、いくつかの建物の見える集落に入っていった。
バルやレストランの看板があるが、
まだシーズンオフのこの時期は、
何処も開いていないのだ。

どうしようか。
この雪と風の中を、
あと10キロ以上の山道を、
越えることができるだろうか。
しかも、私の携帯電話が使えなくなったので、
何かあった時にも、
連絡もできないし、
自分たちの位置も知ることができない。

その時、一台の白い乗用車が、
集落の上から下ってきた。
立ち止まっていた私たちの前を通り過ぎると、
少し下で、雪の中をブオンブオンと唸らせながらUターンしてきた。
そうしてね、
運転していたおじさんが、
手真似で、ついてこいと言うんだ。
嬉しかったね、この時は。

車を停めたおじさんの後について、
吹き溜まった雪を踏み締めていくと、
たどり着いたのは、一軒のアルベルゲ(巡礼宿)なのだ。
時刻はまだ、12時前。
立ち往生していた私たちのために、
早めに開けてくれたのだね。

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道から少し離れているし、
降ったばかりの雪に、
足跡もなかったから、
案内をされなかったら分からなかっただろうなあ。

とにかく、風の強い吹雪の中から、
暖かい建物の中に入っただけで、
ほっとした。

おじさん、大きな薪を持ってきて、
ストーブの中に入れてくれる。
寝室は大部屋で、
30人ぐらいは泊まれる二段ベットがあるが、
所々に仕切りがあって、
明るく、清潔なところだ。
前日の、薄暗い、湿った感じの宿とは、
全く違っていた。

持参の寝袋を広げて、
自分のベッドを確保する。

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落ち着いたら、
ビールで乾杯。
今日はたった6キロしか歩かなかったが、
とにかく無事でよかった。

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そうこうしているうちに、
同じように、雪に痛めつけらた巡礼者たちが、
次々とやってくる。
他の施設がまだ休業中なので、
電話で確かめてからくる人が多い。

湿った雪で、靴を濡らしてしまった人いて、
用意されていた新聞紙を使って、
乾かしていたりした。
あっ、なんだ、日本と同じなのだ。

夕食は、おじさんの作ってくれた、
牛肉のステーキで、泊まった12人が一緒に食べた。
付け合わせの、ポテトの量の多いこと。
私は食べきれなかったけれど、
他の人たちは、みんなペロ。

ドイツ人なのに、アルゼンチンで、
医者の勉強をしている女性。
アメリカはフロリダからきて、
スペイン語は苦手と言いながら、
すごい勢いで話す、
これも一人旅の女性。
そして私と同年代の、
スペイン人で、俳句を作ると言うジョン。

この夜は、他の人のいびきも、
気にならずに寝られたような気がする。

次の朝も、まだ雪が降っている。
携帯電話が使えないという私たちを心配して、
ジョンが一緒に歩いてくれるという。
彼は、学校の先生をしていて、
外国人にスペイン語を教えた経験があり、
しどろもどろの私の言葉にも、
辛抱強く耳を傾けてくれた。

安全を考えて、
山の中を歩く、
本来の巡礼路ではなく、
自動車の道路を歩くことにした。
もちろん、この雪で、通る車はないが。

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道路なので、登りはキツくないが、
雪の上を歩くのは、
思ったより、応えるものだ。
それが、後ろから、ものすごい勢いで、
追いついてきた人がいた。

「やあ、いい天気だね」
そんな冗談を、明るく言う。
とても背の高い、
体格の良いご夫婦。
聞いてみれば、スウェーデンから来たのだと。
なるほど、彼らには、この程度の雪は、
チョチョンのチョイなのかもしれない。
あっという間に、吹雪の中に消えてしまった。

標高1500メートルには、
鉄の十字架と呼ばれるモニュメントが建っている。
ここに、自分の暮らす場所の石を、
願い事を書いて置くといいという。
そんな、想いのこもる場所なのだね。
だけれども、そこは、風の通り道。
立ち止まることなく、通り過ぎることに。

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そこからは下りになるのだが、
それでも長い道だった。
ゴウゴウと音を立てた除雪車が通ると、
路面は平らになり、
歩きやすくなる。
でも、滑りやすくなるのも事実。

この雪の中で、牛が放牧されていてビックリ。

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少し下るだけで、雪の量が減っていく。
何回か歩いたことのあるジョンがいうことには、
この辺りの、山の景色は素晴らしいそうだ。

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やっと、山あいの集落に着いた時には、
雪は止みかけていた。
宿を予約しているというジョンと別れ、
唯一営業している、レストランの上の、
こじんまりとした巡礼宿に入る。
この巡礼宿も、
瞬く間に、雪の道に疲れた巡礼者でいっぱいになるのだが。

などと、日々、
緊張と驚きと、発見と後悔の連続。
スペイン、サンティアゴ・デ・コンポステェラの
巡礼の旅は、座席にしがみついて、
キャーキャー言っているだけの、
ジェットコースターに乗っているつもりでは、
あっという間に放り出されてしまう旅なのだ。

出会った人たちの、
思いもかけない善意に支えられていることもある。
特に、ずっと話し相手になってくれたジョンには感謝。
雪の中を救ったくれた、アルベルゲのおじさん。
一人で料理を作っているので、
手伝おうと入った厨房の整然さ。
雪の軒先で一休みさせてくれた小屋の、
子犬と、鳴き声しか聞こえなかった猫。

そんな語り尽くせない経験で、
とても贅沢な時間を過ごした旅だった、、かな。

 

20日かけて、スペインの巡礼路を歩いてきた。

この頃、どうも肩の辺が重くなって、
首を回すと、コキコキと音がする。
何やら、膝も曲げづらくなって、
時々、コキっと音がする。

そうか、
だから70歳のことを、
「コキ」と呼ぶのだねぇ。んっ。
ああ、そんな年になってしまった。

私の周りの同年輩の人たちにも、
元気なジジババが多い。
でもねえ、色々と、
健康上の悩みに突き当たっている人もいる。
中には、片道切符を持って、
どこかへ行ってしまった人もいる。

コロナ禍で苦しんだ私は、
まだまだ店を続けるべく、
日々、働き続けなければならない。

でもちょっと待てよ。
元気なうちに、やっておくべきことが、
残り少なくなった人生に、
あるのではないか。

店の仕事はもちろん 大切だが、
それ以上に、
今、やっておかなければ後悔することが、
山ほどあるのではないか。

その、うず高く積み上がった山の中から、
ほんの小さな塊をつまみ上げてみる。
そう、これならできそうだ。
何年も前から、いつかは、
と、密かに温めていたものだ。

これをやるのは、
今しかない。
店のお客様には迷惑をかけるかもしれないが、
思い切って、
「Enter」のボタンを押してみよう。

それが、
スペインのキリスト教の聖地、
サンティアゴ・デ・コンポステラを目指す、
巡礼の旅だった。

私はキリスト教徒ではないけれど、
異国の荒野を歩く、祈りの旅に心が惹かれる。
幸いなことに、スペイン語ならば、
少しは心得があるからね。

ということで、
いくつかあるこの巡礼路の中で、
フランス人の道の
最後の260キロを歩いてきた。
歩いたのは18日間、
前後を入れると25日という長い旅となった。

 

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頼る人もなく、
女将と二人だけで、
言葉も習慣も違う国を、
自分で背負えるだけの荷物で、
毎日毎日歩くのは、
思ったより、大変なことだった。

なにしろ、道は平らではない。
至る所に登りもあるし下りもある。
1日に、700メートル以上の標高差があることもある。

それに、前半の二つの峠を越えた時には、
大雪に恵まれてしまった。
よっぽど普段の行いが、、、
いや、良かったので、あの程度で済んだのだろう。

3月はまだ、巡礼の季節ではなく、
開いている宿も、レストランも少なかった。
目的地に着いても、宿が見つからなかったり、
朝から、夕方まで、食べるところが無かったことも。

1日平均15キロも歩けばいいと思っていたが、
宿のある街は、そう都合よく、散らばっていない。
時に、長い距離を歩かなければ。
なんで、こんなことをやっているのだと、
思ったことしばしば。

そんな苦労もあったけれど、
今思えば、とても、贅沢な時間を過ごせたのだと思う。
日々の暮らしから抜け出し、
全く違う景色、人、食べ物、
世界を体験できたのだから。

ということで、しばらく、
スペインのネタが続くかな。                                                                

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昔はそば屋の汁に、鰹節は使われなかった。

「おそば屋さんで、鰹節を使うなんて、
 もったいない、もったいない。」
もう、だいぶ前にお亡くなりになったけれど、
老舗の鰹節店のおばあちゃんが、
私が鰹節を買いに行くたびに、
そう言っていた。

東京の築地の卸店のご主人も、
ご自身のブログで書かれていた。
昔は、そば屋から鰹節の注文が入ることは、
ごく一部を除いて、無かったのだとか。

そば屋が使っていたのは、
さば節やそうだ節などの、
いわゆる雑節というもので、
使っても、せいぜい亀節(小型の鰹の節)ぐらいだったらしい。

昔のそば屋は庶民的な存在。
その中で、安価に美味しく食べるさせる、
工夫をしていたのだね。
それが高度成長の時代となって、
食べ物の質が問われるようになると、
そば屋でも鰹節を使うことが、
当たり前になったようだ。

ご存知のように、
そば屋の出汁の取り方は、少し変わっている。
厚削りの節を、長時間、
そこそこの火力で煮詰めて作る。
節の持つコクを引き出す作り方だ。

東京周辺では、本枯れという、
カビ付けけた節が好まれるが、
関西では、荒節というカビ付けしない節が、
多く使われるという。
合わせる醤油の違いにもよるのだろうね。

鰹節の産地は、鹿児島産が多く、
ついで静岡となる。
ちなみに、この頃は、
インドネシア産、フィリピン産も入ってきている。
これは、もちろん、日本の会社が、
より、カツオの産地に近いところで、
国内と同じような工程で作らせているのという。

ちなみに、鰹節作りは、
とても複雑な工程を経て出荷される。
人手も時間も必要な作業なのだね。
だから、多少値が張るのもうなずける。

さて、この鰹節、
とても困った問題がある。
なにしろ、元は生の魚だ。
どうしても、季節や個体によって、
変動がある。

だから、厚削りの様子を見ただけでは、
美味しい出汁が出るかは、
わからないのだ。

正直な節屋さんが言うことには、
ツユにして見るまでわかりません、
とのこと。
値段で仕入れてみて、
痛い思いをしたこともあったっけ。
だから、信用のおけるところから、
仕入れなければ。

ところが、最近、
お付き合いした地元の節屋さんが廃業。
言うことには、
「今どきの店は、節で出汁をとることはなくなりました。」
とのこと。
はて、またまた世の中の不思議が増えてしまった。
節からではなく、どのように出汁を取るのだろうか。
そもそも、出汁など使わないのかな、、、。

と言うことで、
「今どきの店」になれそうもない私は、
時間と手間をかけて、
節から出汁を作り続けるのだ、、、。

 

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そばは釜で茹でる。当たり前だけれども。

そばを茹でる時に使うのは、
昔ながらの羽釜(はがま)だ。
米を炊く時に使う釜を大きくしたようなもの。
と言っても、
釜もかまども見たことのない人が多いのだろうな。
へっついの上に載せるもの、
と言ったって分かるまい。
へっつい、つまり、カマド自体を見かけないものね。

あるお弁当チェーンのシンボルマークに、
そんな形があったっけ。
私の子供の頃には、
もう普通に、
電気釜やガス釜があったから、
実際に、知っている人は少ないことだろう。

とは言っても、
まだ、カマドの残っている家もあり、
また、様々な仕事をしているうちに、
私も何度か火を起こしたことがある。

カマドの火を起こすには、
ちょっとしたコツが必要。

釜の底は丸くなっているのだが、
下からただ火を燃やして炊けばいいものではない。
カマドが温まったら、
焚き口のすぐ外で、薪を燃やすようにする。
そうすると、炎は、カマドの中に、
まるで吸い込まれるように燃えていく。

そして、釜には手前斜めから、
火が当たるようになる。
そうすると、釜の中の湯が、
手前から温められるから、
向こう側へぐるぐると回るようになるのだね。
お米を美味しく炊くには、
これが大切だとか。

今、店でそばを茹でる時に使っているカマドも、
同じ原理。

薪やコークスで釜を炊いていた時代は、
火加減が難しかったが、
今は、ガスで、微妙な調整ができる。
しかも、空気を強制的に送って、
火力を強めた、特別なバーナーだ。

この火を丸い底の手前に当てる。
そうすると、湯はこちらから奥へと、
ぐるぐると回り始める。
そこへそばを放り込めば、
縦にでんぐり返しをして、そばが回っていくことになる。
こうして、均一にそばが茹で上がるのだね。

家庭で使うような平鍋で、
下から全体に火を当てても湯は回らない。
こういう鍋で茹でる時には、
箸や揚げざるで、そばを回してやるようにしなければ。

この時、火が強すぎると、
そばがそばが浮いてしまって、
湯の中を回らなくなる。
だから、火加減の調整が必要なのだね。

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少し前までは、多くのラーメン屋でも、
この羽釜がつかわれていた。
茹で上がった麺を、平たい網で救って、
どんぶりに分けるところなんぞは、
いかにも職人的な技だった。

ところが、今は、てぼと呼ばれる、
細長いカゴに入れて茹でるところばかりとなった。
てぼを掛けやすいように、羽釜ではなく、
寸胴型の鍋なんぞを、
それも、場所を取らないように、
四角い鍋を使ったりしているね。

あらかじめ茹でてある麺を、
温めるだけの立ち食い蕎麦屋でも、
このてぼは大活躍。
しかし、手打ちの生そばは、
このてぼを使って茹でるわけにはいかない。

湯量のある大きな鍋で、
強火で、短時間で茹で上げるのだ。
だから、昔ながらの羽釜が、
今でも使われているのだね。

業務用のそば釜には、
羽釜の外側を覆うように、
水のタンクがあり、
バーナーの火の予熱で温められる。

昔の釜は、近づくだけで、
熱を感じたものだが、
今は、エネルギー効率も上がり、
釜自体が熱く感じられることはない。

ところがねえ、
聞く所によると、
そば屋の看板を上げながら、
釜のない店も、近頃はあるのだとか。
時代の変化に、
ついて行くのは大変だね。

 

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馬籠峠は、外国人が歩いている。

中山道木曽路の妻籠(つまご)宿は、
古くからの街並みが残されている。
宿場町としての街並みを、
これだけ残せたのは、見事なものだと思う。

聞けば、住民全員で古い家を、
貸さない、売らない、壊さない、
という決まりを作り、守ってきたのだという。
今では、使っていなさそうな家も見かけたが、
庭も含めて、きちんと手が入っている。
だからこそ、江戸の街道の雰囲気を楽しむために、
多くの方が訪れる観光地となったのだね。

休みを使って、
以前から歩いてみたかった木曽路を、
南木曽駅からこの妻籠宿、馬籠(まごめ)峠、
馬籠宿、そして中津川駅まで歩いてきた。

まだ春浅い季節なので、
妻籠宿も、観光客は少なく、
閉じている店も多いが
韓国や中国から来られた方々が、
楽しそうに散策していた。

そこから2キロほど登ったところに、
大妻籠という数軒の集落があり、
どこも大きな建物で、民宿をしている。
泊まったのは、その一軒。
入れば吹き抜けに囲炉裏がある。

70半ばという、中々、口の元気なお婆さんが、
色々説明してくれる。
確かに部屋は昔ながらの座敷を仕切ったものだが、
ちゃんと内窓が入って、二重になっている。
ギシギシいう廊下を踏んで浴室へ行けば、
ここは新しくなっていて、木の浴槽が気持ちいい。
トイレなんぞは最新式で、
入るとフタが自動で上がったりする。

山の中で、とにかく自給自足で暮らしてきたそうだ。
だから、食事に出るお米は自家製。
ちょうど野菜のない時期であったが、
手作りの漬物や根菜類、
そして、岩魚や山女はその辺で獲れたもの。
なんと酒まで自家製で「ドブロク」が出た。

そして、その日の同宿人は、
浴衣からはみ出た足に、
すね毛のびっしりと生えた、
大柄の外国人カップル、ひと組。
食事の座敷に、ちょこんと正座している。
びっくりしたなあ。

英語は通じないようなのだが、
(こっちにも通じないが)、
後で聞いたら、イタリアから来たのだそうだ。
朝6時半の朝食に付き合うと、
一番のバスで、彼らは出て行った。
これから京都に行くそうだ。

失礼ながら、このようなディープな宿に、
外国人が泊まりに来るとは思わなかった。
そうしたら、けっこうやって来るとの、
おばあさんの話。
おばあさんも慣れたもので、
相手が分かろうが分かるまいが、
平気で日本語で説明したりしている。

さて、それからの話。
宿を出て、馬籠峠までの急坂を登り、
馬籠宿までのなだらかな坂を降っていったのだが、
その道で出会ったのは、三十人ぐらいかな、
それが、すべて外国人。
大きなリュックを背負って、
逞しい脚で、ザックザックと歩いてくる。

まだ肌寒いのに、Tシャツ一枚で歩いている人がいて、
身振りで寒くないかと聞いたら、
親指を立ててグッドだって。

そうか、馬籠から妻籠の間は
ゆっくり歩いても三時間。
この山道と、昔ながらの建物の姿が、
外国人を魅了するのだろうなあ。

馬籠宿は、流石に観光客が多い。
ここは山が開けて気持ちの良いところだ。
残念ながら、古くからの宿場の建物は、
何度かの火事で焼けてしまったので、
それらしく作ってあっても、
新しい意匠の入ったものだ。
それでも、観光地らしい雰囲気を抱え、
カメラを下げた人々が、
坂を登ったり降りたりいている。

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ところが、馬籠宿を出て、
旧中山道に入ると、観光客は、
あっという間にいなくなる。
そして、古い石畳の道を降れば、
後は中津川駅まで、普通の住宅街の中を、
クネクネと、そして登ったり降りたりの舗装道路。
この道が長いこと。

ところが、この道で行き会うのも、
やっぱりリュックを背負った外国人。
若い女性が、一人でカッカッと歩いていたり。
途中の喫茶店で一服したら、
店のボードに、訪れた外国人の写真がびっしり。
馬籠ばかりではなく、
この道も、外国人に歩かれているのだ。

コロナ禍が落ち着いて、
多くの外国人が日本を訪れている。
長野駅にも、大きなカバンを持った姿を、
随分と見かける。

三年前にスペインへ行った時にも感じたが、
以前に比べ、日本への興味を感じている人たちが、
多くなったようだ。
短い旅の中で、日本へ行くというスペイン人に、
三人も出会ったのだから。

なんでも、ある国のドキュメンタリー番組に、
この馬籠峠が紹介されたとのこと。
だから、こんなに欧米系の外国人が多いのか。
それにしても、日本でも、
何度もテレビで紹介されているのに、
なんで、日本人と合わないのだろうねえ。

でも、ありのままの日本を、
多少の不便は感じても、
それをかえって楽しんでいるような、
そんな旅を、彼らはしているのだろうねえ。
そんな価値観の違いも、
私たちは受け入れてあげよう。
こんな私の店に来る、
勇気ある!外国の方々を、
暖かく迎えてあげよう、無理のない程度でね。

 

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