1月に群馬に行った時に、
かねてから気になっていた町、
沼田に寄ってきた。
沼田は、真田信繁(幸村)の父、
昌幸がこだわった土地だ。
家康に盾を突いても、
この場所を守ろうとしたのだ。
(第一次上田合戦)
去年、放送された「真田丸」というテレビドラマのお陰で、
ここ沼田も注目を浴び、、、、
たのかどうかわからないが、
そのドラマをテーマにした展示施設が開かれていたりした。
そのドラマ、
私は、一話も見ていないのだけれど。
なるほど、
沼田の町は全体が高台にあり、
西と北を見下ろせる。
北側には、
上越国境の山々がそびえ立つのが望まれる。
越後から関東に入るには、
ここを通らなければならない要所だったのだね。
そこで、昌幸は、ここを押さえておきたかったのだ。
ということはともかく、
そばの話だ。
真田信繁は、大阪夏の陣で討ち死にしたのだから、
1615年に亡くなったことになる。
さて、信繁は、そばを食べたのだろうか。
前にも書いたのだが、
記録に残る限り、今のようなそば、
つまり「そば切り」というものが現れたのは、
1572年。
長野県は木曽のお寺で、そば切りを振る舞ったそうだ。
それ以降の記録は、
近江のお坊さんが江戸でそば切りを食べたという、
1614年。
つまり、信繁は、
食べようとすれば、
そば切りを食べることができた時代にいたことになる。
もっとも、その頃の「そば切り」が、
どのようなものであったのか、
確かめようがない。
まだ、醤油が広まっていない時代なのだ。
どんな食べ方をしたのだろう。
江戸でそば切りが盛んになり、
今日のようなスタイルが出来たと言われるのが、
1700年台の半ばになってから。
だから、高野山の麓に蟄居させられていた信繁が、
そんな手間のかかる食べ物を、
わざわざ食べたのかは、
まったくわからないのだ、、、。
子供の頃にラジオで聞いた講談話というのは、
意外と覚えているもので、
信繁の兄、信之の妻の小松姫が、
ここ、沼田の城で、
敵方となった、昌幸、信繁を追い払う話なんぞ、
なんとなく目に浮かぶ。
沼田城には五層の天守閣があったそうだ。
それも、後に改易となった時に、
幕府によって取り壊されたとか。
私が行った時は、
とにかく深い雪で、
どこに何があるのか、よく解らなかった。
なにぶんにも、
歴史というのは朦朧としたものがあり、
なかなか、こうだとは言い切れないことが多い。
また、そこが、想像を巡らすことのできる面白さかも。
信繁は、そば切りを食べたのかなぁ。