手打ちそば屋は眠れない

昭和初めの、文化財の宿に泊まった伊東。

伊東の駅は、
海に近いことを知っていた。
東京に住んでいた若い頃に、
日帰りで泳ぎに来た覚えがあるからだ。
だから、電車から降りれば、
海の香りがするかな、、
と思っていたのだが、
クンクンクン、
そんなことはない。

今は真冬の真っ只中。
最も海の香りのない季節だ。

ならば、
町中のいたる処に湧き出している、
豊富な温泉の匂いがするかと思えば、
クンクンクン、
そんなこともない。
このの湯は透明で無臭なのだ。
草津や渋みたいに、
街に入ったとたん、
温泉らしい硫黄の匂いが鼻をつくわけではない。

昭和の時代には、
おそらく旅館の名の入った送迎バスで溢れていただろう。
のぼり旗を持った、はんてん姿の番頭さんたちが、
電車の着くごとに、予約のお客さんを迎えたいたことだろう。
そんな、どこでもあった温泉町の駅前の風景は、
今は昔。
閑散としたロータリーで、
タクシーの運ちゃんが、大欠伸をしている。

そんな伊東駅前は、
いかにも、これから三日間の休みを送るのにふさわしい、
のんびりとした雰囲気なのだ。
冬だというのに、寒さを感じさせない、
この空気感がいい。
やっと取れた、遅ればせの正月休みを、
暖かなところで過ごしたい、、。
そんな、ジジイ、ババア臭い発想で、
風の冷たい長野からやってきた。

泊まった宿が、
昭和の初めに建てられたという、
木造三階建の古い旅館。
なんと、国の登録文化財になっている。
そこが、いまは、ゲストハウスに。

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その入り口の雰囲気からすばらしい。
お寺の入り口のような、
彫り物の入った屋根。
入り口のガラスの引き戸には、
以前の宿の名が金文字で入っている。
中に入れば、けやき張りの広い廊下が。

部屋は三階の一番奥の突き当たり。
その階段が、複雑に入り組んでいるあたりが、
古さを感じさせる。
館内の表示は横文字ばかり。
そう、本来は、外国人向けのホステルなのだ。

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夕方、一階の共有スペースで、ビールを飲んでいたら、
大きな荷物を持った外国人たちが、
続々と入ってくる。
その半分ぐらいはアジア系の旅行者だ。
外国人のスタッフもいて、
英語で、一通りの説明を受けた後、
鍵をもらって、それぞれの部屋に入っていく。

彼らに、この日本の古い建物は、
どのように写っているのか。
古い畳の部屋に、
自分で布団を敷いて眠るのだ。
私たちには当たり前だけれど、
貴重な体験ができるに違いない。

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地下に温泉の浴場がある。
それほど大きくはないが、
ここだけは、新しく改装されていて、
大理石張りの壁に囲まれた、
モダンな浴室だ。
分福茶釜の湯口から出る湯は、
もちろん源泉掛け流し。
加水も加熱もしていないそうだが、
熱くも、温くもなく、匂いもなく、
気持ちのいい湯だ。

あれだけの外国のお客さんが来たのだから、
さぞ、混んでいるだろうなあと思ったら、
いつも一人でゆっくり入れる。
たまに、外湯めぐりの日本のおじさんがいたが、
外国人とは会わなかった。
そうか、外国の人には、
こういう大風呂に入る習慣はないのだろう。
赤の他人と、裸で向き合うことはないのだ。

でも、2箇所ある小さな湯船の貸切風呂には、
いつも使用中の札が掛かっていたから、
こちらを使うのだね。

古い木造の建物だ。
これだけの人が泊まれば、
さぞ、音が響いてうるさいだろうなあ、
と覚悟していたのだが、
とても静かだった。
部屋には、耳栓が用意されていたにも関わらず。

外国の人たちも、廊下や階段を、静かに歩くし、
行きあえば、軽く目で挨拶をする。
スタッフが気を遣っているのかもしれないが、
共用のキッチンも、いつも綺麗に片付いている。
皆さん、この古い建物の宿にリスペクトの念を、
しっかりと持たれている気がする。

かえって、我々日本人の方が、
それを忘れているのではないだろうか。

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70歳というジジイになると、
旅館に泊まるのが怖くなる。
人的サービスが有り余っていた昔ならともかく、
最近の旅館は制約が多い。

その一番は、夕食だ。
これでもかと、テーブルにいっぱいの料理を並べてある。
見た目は綺麗かもしれないが、
普段は夕食を軽くしている私たちには、
それを、見ただけで腹一杯になる。
しかも、私の世代の常として、
料理は残してはいけない、、
というバイアスが入ってしまうのだ。ふう。

一晩かけてお召し上がりくださいというならいいが、
たいていは、苦手な酒を、
無理して味わう暇もなく、
1時間ほどで、部屋に追い払われる。
朝食なんぞ、8時からですと一方的に言われ、
5時に朝風呂を浴びた後の時間を持て余す。
仕方ないので、自動販売機にある飲み物を、
いやいやながら、飲んで待っていると、それでも足りず、
もう一つ、もう一つと飲んでるうちに出来上がって、
朝飯を食った後に眠くなる。
えっ、それで10時が追い出し時間、いやチェックアウトだって。

だから、山の中の宿ならともかく、
ほかに食事の取れるところがあるのなら、
素泊まりの方が気楽なのだ。
まして、このようなゲストハウスは、
自由に使えるキッチンがあるのが嬉しい。
近くのスーパーで、
静岡名物「黒はんぺん」なんぞを買ってきて、
朝食に焼いて食べる。
もちろん、冷蔵庫には、
自分の名前を大きく書いた、
缶ビールを入れておく。

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その宿の隣も、
やはり、昭和の初めに建てられた元旅館で、
似たような外見だ。
こちらは、伊東市の博物館になっていて、
昔の旅館文化を伝えている。
床柱や、明かり障子などに、
独特の意匠を凝らした部屋が残っている。
大勢いたという、芸者を呼んで、
宴会をしたという大広間も残っている。
ここでは、今でも、芸者の講習会が開かれているという。
それも、観光客向けに。
その会場となっているようだ。

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若い人には、
ボロ宿にしか見えないかもしれないが、
昭和の高度成長の前の世界を知っている、
まだ死にかけないジジイには、
懐かしく、
気持ちを落ち付かせる宿なのだ。

夜になれば、
古賀政男のギターの音色なんぞを、
頭の中に響かせながら、
街を歩いてみる。
たしか「湯の町エレジー」って、
伊豆が舞台だったよね。

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表通りから外れて、
暗い路地にポツンと灯の入る、
小さな居酒屋に入ってみれば、
なんと、地元の人たちで大賑わい。
後から入ってきた人が断られていたから、
カウンターに座れた私たちはラッキー。

刺身を頼んでみれば、
山国の長野とは、
全く次元の違うものが出てくる。
ううん、冬のメジは美味いなあ。

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しかも、静岡の銘酒が、
それも、純米吟醸クラスの酒が並んでいるので、
苦手なお酒を克服するべく、
不本意ながら、徳利を傾ける、、、。
次の日も、夜はこの店に、、。

という、
伊豆の伊東での三日間。
のんびりと、気楽に過ごせたかな。