全国的に深刻な飢饉に苦しんだ天保年代。
江戸は団子坂というところに、
一軒のそば屋が暖簾をかけた。
そう、今から180年~190年ぐらい前のこと。
なんでも、主人は武士だったのが、
町人となって、商いを始めたという。
その主人の名前は正確には残されていないが、
屋号は「蔦屋」(つたや)といったそうだ。
太めのしっかりとしたそばを、
青竹で編んだ五、六寸の平ざるに盛ったという。
酒のあてには「あたり芋」が評判だったらしい。
あたり芋とは、すり下ろした山芋のこと。
縁起を担いで、江戸の商人は「する」という言葉を避けたのだね。
今でも「ゴマをあたる」というでしょ。
土産用のそばを、やはり、竹籠に入れて、
提げて持ち帰られるようにもしたらしい。
汁は、竹筒に入れられたそうだ。
この店の裏には、広い竹藪があって、
そこから切った竹を使ったのだ。
この近所には、植木屋が多く、
菊の時期には、大勢の人が見物にきた。
だから蔦屋は大繁盛をしたのだね。
だけど、誰も、このそば屋の屋号を呼んでくれない。
「藪(やぶ)のそば屋」
または「藪そば」と呼ばれたのだね。
そこで店も割り切って、
「団子坂藪蕎麦、蔦屋」という看板を掲げるようになったとか。
この店は三代続いた。
明治になってからは、ずいぶんと支店を増やし、
また店は、かなり大きなものになったらしい。
それが、明治39年(1906年)に廃業してしまう。
相場で失敗したからという話もあるが、
はっきりとした理由はわからないそうだ。
店主はその後、満洲へ渡り、
何軒かの蕎麦屋を持ったらしいが、
消息は途絶えてしまったようだ。
この蔦屋の支店を買い取って、
伝統を引き継いだのが今の「神田藪蕎麦」ということになる。
江戸そばの名店と言われるところだ。
でもここの本来の流れを汲む一門は、ごく数軒でしかない。
しかしながら「藪蕎麦」または「やぶ」を掲げるそば屋は、
日本中にたくさんある。
すべてが、さかのぼれば「蔦屋」に繋がるわけではないだろう。
江戸時代から明治時代まで、東京には、
竹藪がたくさんあったそうだ。
だから、本来の屋号ではなく、
「藪の内」「藪」と呼ばれるそば屋は、
蔦屋以外にもあったようだ。
だから「藪蕎麦」という屋号を持っていたからと言って、
そのそば屋が、一つの系列の元にあるとは限らないとのこと。
藪といえば、ある職業にとっては禁句だが、
そば屋にとっては、奥ゆかしさを感じさせる名前。
そのイメージゆえに、全国的に、
名が広まったのだろうなあ。
写真は、その伝統を受け継ぐ店のひとつ、
「上野藪蕎麦」のもの。
ここの汁は藪一門の中でも、
それほど辛くない。
手打ちを復活させ、
気楽な雰囲気ながら、きちんとした、
江戸蕎麦を楽しませていただいた。