製粉屋の社長さんが嘆いていた。
この頃はソバを挽くための、
石臼になる石が、手に入りにくくなっているらしい。
今は、墓石さえも、
中国や韓国から輸入されている時代。
質の良い石を切り出している、
国内の業者さんが、なくなっているのだそうだ。
ましてや、ただでさえ需要の少ない、
業務用の石臼を、切り出してくれるところがないという。
大きな声では言えないが、
外国産の石臼も、
既に使われているらしい。
ソバをめぐる世界も、
どんどん国際化が進んでいるのだね。
今のような石臼が使われ始めたのは、
江戸時代半ば以降だといわれている。
溝を切ったを石を上下に合わせて、
回転させることによって、粉を得るという
とても合理的な方法だったのだ。
ここ長野でも、
昭和の初めの頃までは、
石臼は、嫁入り道具の一つだったと言う話を、
聞いたことがある。
特に長野のある、善光寺平は、
昔は麦の産地であり、
小麦を挽くのに使われたのだね。
そして、長野独特の食べ物である「おやき」や、
すいとん、薄焼きなどにして食べられたと言う。
だから、長野は今でも、全国の県庁所在地の中では、
家庭での小麦粉の消費量が、トップなのだそうだ。
もちろん、この頃は、家庭で石臼が使われることはない。
古くから住んでいるお宅に伺うと、
この石臼が、庭石や飛び石に使われているのを、
多く見かけるので、やはり、
各家庭にあったもののようだ。
石臼がソバを挽くのに使われたのは、
主に、小麦の採れなかった山間部のようだ。
若い頃働いたホテルで、年配の人たちに、
いろいろと話を聞いた。
そのうちの、戸隠から来た人は、子供の頃は、
とにかく、そばばかり食べさせられたと言う。
普段食べるのは、つなぎ粉のない十割で、
ボソボソのそばを、味噌汁の中に入れて食べたそうだ。
全く美味しいくなかったらしい。
それが、何かのハレの日、
つまり、お祝いや祭りのあるときには、
小麦粉を買ってきて、つなぎに使った。
その時は、ツルッとしたそばが食べられて、
それは美味しく感じたと言う。
戸隠そばは、いまでも七三が基本。
もちろん、店によって違うが、
そば粉二杯に、小麦粉一杯という割だ。
つなぎを入れたそばを打つことが、
戸隠の人にとっての、おもてなしなのかも知れない。
家では、夕食後、子供たちが、
次の日のそばを、石臼で挽くのが習慣だった。
いくらグルグルと回しても、
そばは、少しづつしか粉にならない。
眠いのと、退屈な作業に、
嫌で嫌でたまらなかったという。
だからね、
長野周辺の山の中で育った人の中には、
「そばなんて、大嫌いだ!
見たくもない!」
という人が、結構いるのだ。
そう言う人に何人も会ってきた。
口にはしないけれど、
そばは金を出して食べるものではない、
と思っている人も、たくさんいることも事実だ。
もっとも、そういう経験をされたのは、
もう、かなりのご高齢の方々ばかりだが。
長野はそばの産地と言うけれど、
実は、そんな事情もあって、
独自のそばの文化が、あまり育たなかったような気がする。
自分たちでそばを楽しむというよりも、
それしかないから、仕方なしに食べていた、
いや、食べさせられていたのだね。
石臼の話を書こうと思って、
脱線してしまった。
それは、またの機会に。