手打ちそば屋は眠れない

石臼には、目がある。ならば、、、。

さて、江戸時代の終わり頃、
今から160年ほど前のこと、
江戸には4000軒近くのそば屋があったという。
当時の人口、およそ120万人と比べてみても、
かなりの数だろう。

まだ動力の無かった時代。
そばは、人間の力で粉にされていたらしい。
そば屋には、調理場の他に臼場という場所があり、
そこで、職人たちが一日中、臼を回していたという。
一つの臼で挽けるそば粉の量は知れているので、
一軒のそば屋だけでも、
何人もの人足を抱えていたことだろう。
とすると、随分の人数が、そば屋の営業に、
関わっていたことになる。

そのころの江戸では、
西部の中野にそばの問屋があったそうだ。
江戸に入るそばは、一度中野に集まり、
ここで、皮を剥かれたそばの実が、
江戸中に配られたという。

ここを流れる神田川を使って、
水車による製粉も盛んだったそうだ。
もっとも、水車は突き臼による製粉となるから、
そばにはあまり向かなかったらしい。

それにしても、手回しで、
そば粉を作る作業は、大変な労働だったことだろう。
明治になって、動力が普及すると、
一気に機械製粉が広まった。
効率の良いロール式製粉も行われるようになって、
石臼は次第に使われなくなってきた。
石臼を回していた職人たちも、
仕事を失ったに違いない。

そうして、役目を終えて捨てられた石臼を、
哀れに思った人もいる。
製粉の盛んだった中野にある、
宝泉寺には、その石臼を祀った、
「石臼塚」というものがあるそうだ。
食べ物を扱った道具が、見捨てられているのを見て、
心を痛めたご住職が、
昭和の初めに作られたのだそうだ。

一時は廃れた石臼製粉だが、
近年見直され、質の良いそば粉を作るために、
製粉工場でも、使われるようになった。
そば粉でも、量より、質を求められるようになってきたのだね。

よく、昔と同じように、小さな石臼で、
手で挽いたそば粉を使った方がうまい!
とおっしゃる方もいる。
そういう方法で、そばを作っている店もあり、
それはそれで、味わい深いものだ。
でも、それを、毎日食べろと言われると、
私は、ちょっと引いてしまう。

今は、製粉の技術が発達し、
昔より、はるかに質の良いそば粉が、
手に入るようになった、、と思う。
そばを挽くというと、
石臼ばかりが頭に浮かぶが、
実は、その前後にも、とても手間のかかる作業があり、
そばの製粉は、その複雑な工程の組み合わせなのだね。

製粉工場に見学に行ったら、
グルグル回る何十台もの石臼に、
一つだけ、逆回りに動いているものがあった。
聞いてみると、石の目がそうなっているののだそうだ。
なるほどねぇ。
石の目の方向まで考えているのだ。

石に目があるのなら、
きっと、耳や、鼻もあるに違いない、
などと、進歩のないことを考えていたりして、、、。

 

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「そばなんて、大嫌いだ!見たくもない!」

製粉屋の社長さんが嘆いていた。
この頃はソバを挽くための、
石臼になる石が、手に入りにくくなっているらしい。
今は、墓石さえも、
中国や韓国から輸入されている時代。
質の良い石を切り出している、
国内の業者さんが、なくなっているのだそうだ。
ましてや、ただでさえ需要の少ない、
業務用の石臼を、切り出してくれるところがないという。
大きな声では言えないが、
外国産の石臼も、
既に使われているらしい。
ソバをめぐる世界も、
どんどん国際化が進んでいるのだね。

今のような石臼が使われ始めたのは、
江戸時代半ば以降だといわれている。
溝を切ったを石を上下に合わせて、
回転させることによって、粉を得るという
とても合理的な方法だったのだ。

ここ長野でも、
昭和の初めの頃までは、
石臼は、嫁入り道具の一つだったと言う話を、
聞いたことがある。
特に長野のある、善光寺平は、
昔は麦の産地であり、
小麦を挽くのに使われたのだね。

そして、長野独特の食べ物である「おやき」や、
すいとん、薄焼きなどにして食べられたと言う。
だから、長野は今でも、全国の県庁所在地の中では、
家庭での小麦粉の消費量が、トップなのだそうだ。

もちろん、この頃は、家庭で石臼が使われることはない。
古くから住んでいるお宅に伺うと、
この石臼が、庭石や飛び石に使われているのを、
多く見かけるので、やはり、
各家庭にあったもののようだ。

石臼がソバを挽くのに使われたのは、
主に、小麦の採れなかった山間部のようだ。

若い頃働いたホテルで、年配の人たちに、
いろいろと話を聞いた。
そのうちの、戸隠から来た人は、子供の頃は、
とにかく、そばばかり食べさせられたと言う。
普段食べるのは、つなぎ粉のない十割で、
ボソボソのそばを、味噌汁の中に入れて食べたそうだ。
全く美味しいくなかったらしい。

それが、何かのハレの日、
つまり、お祝いや祭りのあるときには、
小麦粉を買ってきて、つなぎに使った。
その時は、ツルッとしたそばが食べられて、
それは美味しく感じたと言う。

戸隠そばは、いまでも七三が基本。
もちろん、店によって違うが、
そば粉二杯に、小麦粉一杯という割だ。
つなぎを入れたそばを打つことが、
戸隠の人にとっての、おもてなしなのかも知れない。

家では、夕食後、子供たちが、
次の日のそばを、石臼で挽くのが習慣だった。
いくらグルグルと回しても、
そばは、少しづつしか粉にならない。
眠いのと、退屈な作業に、
嫌で嫌でたまらなかったという。

だからね、
長野周辺の山の中で育った人の中には、
「そばなんて、大嫌いだ!
 見たくもない!」
という人が、結構いるのだ。
そう言う人に何人も会ってきた。
口にはしないけれど、
そばは金を出して食べるものではない、
と思っている人も、たくさんいることも事実だ。

もっとも、そういう経験をされたのは、
もう、かなりのご高齢の方々ばかりだが。

長野はそばの産地と言うけれど、
実は、そんな事情もあって、
独自のそばの文化が、あまり育たなかったような気がする。
自分たちでそばを楽しむというよりも、
それしかないから、仕方なしに食べていた、
いや、食べさせられていたのだね。

石臼の話を書こうと思って、
脱線してしまった。
それは、またの機会に。

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北国街道40キロを歩く。二日もかけて、、、。

「乗り物は速くなった。
 人は孤独になった。」

チャップリンの映画の中のセリフに、
そんな文句があったと、
覚えている。
かなり、あやふやだが。

一月の終わりに、やっと正月休みをいただいた。
本来ならばこの時期は、
怒涛のような正月の混雑を終え、
やっと、肉体的にもほっとできる時期であった。

ところが今年は、
怒涛どころか、べた凪の、
新年となった。
無理をしてきてもらったスタッフ共々、
顔を見合わせて、暇疲れ。

コロナウイルスは、
善光寺への、初詣まで止めてしまったのだね。

そこでいただいた休みも、
遠くに出かけるわけにもいかない。
そこで、自宅から、上田まで、
古い街道、北国街道を歩いてみることにした。

何しろ自宅は、
丹波島という、昔の宿場跡の近くにある。
そこから、車のびゅんびゅんと通り過ぎる、
細い道や、国道沿いを、
地図を見ながら、古い街道と思われる道を、
歩き続けた。

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道沿いは、家がびっしりと建っているが、
自動車以外に行き交う人の姿はない。
マスクをとって、歩いていると、
この時期なのに、じわっと、
汗ばんでくるぐらいなのだ。

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丹波島宿から、篠ノ井宿、
篠ノ井追分宿、矢代宿、そして戸倉宿へ。
宿場の面影を残しているものは、ほとんどない。
そして、20キロ余りを歩いて、
この日は、上山田温泉泊。

次の日は、うっすらと雪の降る中を、
上戸倉宿から広い通りに面影のある坂木宿、
観光客に人気の柳町のある上田宿を通って、
上田駅へ。
やはり20キロ余り。

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本当に、人と行き合わない。
家から出てくるのは、
車に乗った人だけで。
歩く人の姿は、全く見かけないのだ。

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北国街道は、
軽井沢の追分で中山道と別れ、
千曲川沿いに長野を通り、
峠を越えて新潟、上越に至る道だ。

加賀の前田家も、江戸への参勤に使ったらしい。
佐渡で採れた金も、
年に数回、この道を通って行ったそうだ。
かっての難所と言われた、
坂城の横吹も、上田の岩鼻も、
国道沿いに難なく過ぎていく。

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それでも、歴史を感じさせるものは残っていて、
坂木宿広い通りや升形、
上田のうだつの残る町並みなどが面白い。
中でも、上田の上塩尻地区は、
養蚕が盛んだったところで、
今でも、大きな越屋根のついた蔵がいくつも、
綺麗に保存されている。

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なるほど、歩くスピードで街を見てみると、
いつもとは、違ったものが見えたきた、、かなぁ。
この歩いた40キロ余りは、
上田駅で新幹線に乗れば、
12分で過ぎてしまう。
シャクだから、普通電車に乗っても40分。

そして、痩せたかといえば、
全く、、、、。
こんなバカなことをやって、
せっかくの休日を潰してしまった。

、、、また、やろう。

 

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更科そばは、高級そば屋だった。

 更科の蕎麦はよけれど高稲荷
   森を睨むで二度とこんこん

蕎麦研究家の岩崎信也さんの「蕎麦屋の系図」という本に、
こんな、江戸時代の狂歌が載っている。
大田南畝(蜀山人)の作であると言われているが、
はっきりとは、わからないそうだ。

そのそば屋の裏には、稲荷社があり、
高稲荷と呼ばれていたそうな。
だから「高いなり」とひっかけ、
森を「そばの盛り」とみて、
二度と「来ん来ん」と狐の鳴き声にかけている。

このそば屋、
よっぽど値段の高かったようだ。

信州更科蕎麦所布屋太兵衛
しんしゅうさらしなそばどころぬのやたへい

という屋号のそば屋。
創業は1790年と伝えられているから、
江戸は終わりに差し掛かる頃の時代。
創業者は、大名相手に布を売っていたので、
屋号も「布屋」を名乗ったのだね。

もともと信州の出身なので、
当時からイメージの良い信州を頭につけた。
そして更科(さらしな)という言葉を使った。
このいわれには、いろいろな説があるようだ。
ものの本によると、信州更級(さらしな)の地は、
そばの集積地として有名だったから、
その名を取ったのだと。

信濃の更級は、遠く万葉集や古今和歌集にも、
取り上げられる、風光明媚な月の名所。
芭蕉も信州の旅日記を「更科紀行」としている。
場所としては、長野市南部から、
千曲市、坂城町あたり一帯だろう。
かっては、この辺り一帯を、更級郡と呼んでいたのだが、
近年の、市町村の合併により、
この名、地名は地図から無くなってしまった。

でも、この辺りに、蕎麦が集まったとは、
あまり考えられないなあ。
それほど、交通の便の良い地域でもない。
もちろん調べてみなけらばわからないが。
一部に幕府の直轄領があったとしても、
ほとんどが松代藩の領地となっていたようだ。

それに、そばに、「さらしな」という言い方をするのは、
それよりも前にあったようで、
創業より40年前に書かれた本にも、
「さらしな」を看板にするそば屋が何軒かあったという。

商売をするには、
競争相手とは違うことを特徴付けることが大切。
おそらく、布売りをしていた太兵衛は、
そのことを意識して看板を掲げたのだろうね。

場所は、麻布で、一方は大名の屋敷の並ぶところ、
一方は、商家の続きところだというから、
高級にして、調度や備品にも気をつけて、
当時としては高額なそばを売り始めたのだろう。

見事に太兵衛の思惑は当たり、
店は評判となる。
江戸時代が終わって、明治になっても、
店は繁盛し続ける。
そして、その間に、さらに、
粉の製粉方法などを工夫して、
今日の、白い、更級そばの、
元を作っていくのだね。

この店は、昭和の初め、
七代目まで続いていく。
この七代目が、、、
私にとっては、とても魅力的な人なんだなあ、、。
という話は、またいつか。

 

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豆腐の角に、、、そばの角に頭をぶつけて、、、めえ!!

カウンターにお座りになったご婦人が、
こんなことをおっしゃる。
「わて、大阪やさかい、
 そばはよう食わん。
 いつもうどんばかり。」

 

そう言いながら、
いざ、そばをお食べになると、
見事な食べっぷり。
すっと、そばを口にたぐり込むと、
舌の上を滑らせて、
喉に落とし込んでいく。
まさに、生粋の江戸っ子の、
そば通の食べ方そのもの。

 

そして、
「そばの方が、角があって、
 気持ちいいなあ。」
などとおっしゃるのだ。

 

この方、いつも、うどんも、
噛まずに召し上がるのだろうか。

 

と思って、後で、他の方に聞いてみたら、
関西や四国では、
噛まずに召し上がる方が、
結構いらっしゃるのだそうだ。
、、、知らなかった。

 

うどんは、そばより太く、
小麦粉を使うこともあり、
ゆで時間はかなり長くなる。

 

そのため、
どうしても、角が取れて、
麺が丸くなりやすい。
だから、ツルツルと食べやすくなるのも確かだが、
やはり、うどんの角の立っているのを好む方も、
多くいらっしゃる。

 

そこで、うどん屋さんでは、
茹で汁にある工夫をして
角が溶けないようにしているのだね。

 

西日本にある、うどんの製麺屋さんも、
大いに研究して、面白いことに気づいたそうだ。
うどんの断面を、正方形にするよりも、
やや長方形にした方が、
角が立って、食感がいいというのだ。
その方の説では、10対7ぐらいが、
一番食べやすいのだそうだ。

 

なるほど、うどん、恐るべし。

 

などと負けてはいられない。
そばの話に戻さなければ。

 

というのは、そばの世界では、
長方形の方が、喉越しがいいことは、
先刻承知なのだ。

 

江戸そばの太さの標準とされるのが、
「切りべら二十三本」。
二十三本というのは、
一寸(約3㎝)の幅の生地を、
23本に切ること。
つまり、1.3ミリの太さの麺となる。

 

切りべらというのは、
伸ばした厚みよりも薄く切ること。
例えば、1.5ミリに伸ばした生地を、
1.3ミリに切るということだ。

 

結果的に、切り口は長方形になる。

 

これを、伸ばす手間を省いた、
職人の逃げという人もいるが、
昔の人も知っていたのだろう、
そうした方が、そばの食感が良くなることを。

 

なお、極端な切りべらは、
麺が蛇のように、暴れるので良くない。
また、生地の伸ばしの方を薄くした「伸しべら」は、
食感が極端に悪くなるようだ。

 

戦後は、そばの手打ちが無くなり、
ロール式のそば打ち機が主流になった。
これで細めのそばをつくると、
みんな丸い麺になってしまう。
そのせいか、食感を大切にする、
そばの食べ方が、だいぶ廃れてしまったようだ。

 

多くの方が、
そばを、ご飯でも食べるように、
口に含んで、くちゃくちゃと噛んでいる。
せっかくの、手打ちのそばの食感を、
舌の上を滑らす感覚を、
もっと味わっていただきたいと思っているのだが。

 

あの、大阪の女性のように、
うどんを召し上がる西日本の方々のほうが、
その点をご理解いただいているのかな、
、、、などと思ってみたり。

 

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霧ヶ峰のニッコウキスゲは鹿に食べられている。

毎日雨が続いて、
夕方の散歩にも出られない。
コロナウイルスの感染拡大で、
お客様にも、いらっしゃいとも言えない。
畑は草だらけ、
おまけに、野菜だけはたくさん出来て、
ご近所に配って歩いている。

 

世に難解な、「霞ヶ関語」を理解しない私に、
小役人は、意地悪ばかり(そんなことはないのだろうが)で、
なかなか給付金をくれない。
と言って、誰かの悪口を言ったところで、
何の解決にもならない。

 

ということで、
とても「だるい」。
身体ではなく、気持ちがね。
このまま腐れさてはいけない。
何とか、役に立つように発酵させなければ。

 

そんな中、天気を気にしながら、
気分転換に出かけたのが、
長野から車で二時間ほどの観光地、
霧ヶ峰(きりがみね)だ。

 

この季節であれば、
いつもなら、霧ヶ峰に向かう観光道路、
ビーナスラインは、団体客を載せた大型バスが、
頻繁に行き交っているはず。
初心者向けの山道は、
学生や生徒の集団登山で、
押し合い、へし合いしているはずだ。

 

三、四十年も前に、
高い通行料金を払って、
ニッコウキスゲを見にきた私は、
花よりも多い人の数に、辟易してた。
そして、ここには近寄らない方がいいなと、
きめていたのである。

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でも、この頃は、観光の質も変わってきて、
霧ヶ峰も落ち着いてきたという話を聞いた。
ましてや、この、コロナ騒ぎ。
観光バスも、学校の集団登山もないだろうな、
と思って出かけてみた。

 

雨を覚悟で行ったのだが、
何とかの曇り空。
遠くまでの遠望はなかったが、
ぼんやりと八ヶ岳、南アルプスの一部が見える。

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かっては車山一面に咲いていたニッコウキスゲも、
今は、ほとんど見かけない。
何でも、野生の鹿が増えたために、
他の高山植物も含めて、
食べられてしまったそうだ。
だから、柵に囲まれた一部にしか、
ニッコウキスゲも、ハクサンフウロも咲いていないのだ。

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ということで、車山から、八島湿原まで一回り。
車山は、スキーで何度も来ているのに、
一度も展望に恵まれたことがない。
登ってみれば、なだらかないい山だ。

 

この霧ヶ峰の景観は、
自然に出来たものではない。
標高で1800メートル前後だから、
森林限界を超える高さではないのだ。
麓に住む人たちによって、
何百年も前から、牛馬のための草刈り場として、
木が育たないように、手入れされていたそうだ。
近年では、野焼きも行われている。

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広々とした草原を、
いくつかのぼり下りして、
八島湿原の獣避けゲートを潜ると、
いきなり湿原の花盛りとなる。
ここは駐車場も近いので、
観光の人たちが来ていたが、
以前ほどではない。

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それで、
一時間以上かけて一回りして、
またゲートを出ると、
まったく花の姿が見当たらなくなるのだ。
鹿って、すごい食欲なのだね。
っていうか、それだけの数がいるっていうことだ。
登山道でも、ずいぶんと鹿の足跡を見かけた。

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今年は、
山登りも、リスクを抑えるようにとのこと。
そんなことで、
こんな観光地の山を楽しむことにした。
まだまだ、コロナウイルスの影響は続くだろう。
とにかく自分の気持ちを、
たまにはかき混ぜてみて、
腐らないようにしなくては。

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屋号で呼ばれなかった、初代の藪蕎麦。

全国的に深刻な飢饉に苦しんだ天保年代。
江戸は団子坂というところに、
一軒のそば屋が暖簾をかけた。
そう、今から180年~190年ぐらい前のこと。

 

なんでも、主人は武士だったのが、
町人となって、商いを始めたという。
その主人の名前は正確には残されていないが、
屋号は「蔦屋」(つたや)といったそうだ。

 

太めのしっかりとしたそばを、
青竹で編んだ五、六寸の平ざるに盛ったという。
酒のあてには「あたり芋」が評判だったらしい。
あたり芋とは、すり下ろした山芋のこと。
縁起を担いで、江戸の商人は「する」という言葉を避けたのだね。
今でも「ゴマをあたる」というでしょ。

 

土産用のそばを、やはり、竹籠に入れて、
提げて持ち帰られるようにもしたらしい。
汁は、竹筒に入れられたそうだ。

 

この店の裏には、広い竹藪があって、
そこから切った竹を使ったのだ。

 

この近所には、植木屋が多く、
菊の時期には、大勢の人が見物にきた。
だから蔦屋は大繁盛をしたのだね。

 

だけど、誰も、このそば屋の屋号を呼んでくれない。
「藪(やぶ)のそば屋」
または「藪そば」と呼ばれたのだね。
そこで店も割り切って、
「団子坂藪蕎麦、蔦屋」という看板を掲げるようになったとか。

 

この店は三代続いた。
明治になってからは、ずいぶんと支店を増やし、
また店は、かなり大きなものになったらしい。

 

それが、明治39年(1906年)に廃業してしまう。
相場で失敗したからという話もあるが、
はっきりとした理由はわからないそうだ。
店主はその後、満洲へ渡り、
何軒かの蕎麦屋を持ったらしいが、
消息は途絶えてしまったようだ。

 

この蔦屋の支店を買い取って、
伝統を引き継いだのが今の「神田藪蕎麦」ということになる。
江戸そばの名店と言われるところだ。
でもここの本来の流れを汲む一門は、ごく数軒でしかない。

 

しかしながら「藪蕎麦」または「やぶ」を掲げるそば屋は、
日本中にたくさんある。
すべてが、さかのぼれば「蔦屋」に繋がるわけではないだろう。

 

江戸時代から明治時代まで、東京には、
竹藪がたくさんあったそうだ。
だから、本来の屋号ではなく、
「藪の内」「藪」と呼ばれるそば屋は、
蔦屋以外にもあったようだ。
だから「藪蕎麦」という屋号を持っていたからと言って、
そのそば屋が、一つの系列の元にあるとは限らないとのこと。

 

藪といえば、ある職業にとっては禁句だが、
そば屋にとっては、奥ゆかしさを感じさせる名前。
そのイメージゆえに、全国的に、
名が広まったのだろうなあ。

 

写真は、その伝統を受け継ぐ店のひとつ、
「上野藪蕎麦」のもの。
ここの汁は藪一門の中でも、
それほど辛くない。
手打ちを復活させ、
気楽な雰囲気ながら、きちんとした、
江戸蕎麦を楽しませていただいた。

 

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悪魔はすることがないと、尻尾でハエを殺している。

さて、コロナウイルスの影響で、
60日間の休業をし、
営業を再開して一週間。

 

まだまだ、
店を支えられるほどの売り上げには程遠いが、
知り合いが来てくれたり、
ご常連のお客様のお顔を見られたりして、
ありがたいことだ。

 

中には、
だいぶ休んだのだから、
そば打ちを忘れたのではないの?
などと言われる方も。
そんなことはないですよ、
と答えたものの、
内心、ドキリ。

 

いやいや、忘れたわけではないのだが、
何やら、体が重たいのだ。
やはり、これだけの期間の休みは、
体の動きに、影響しているのだね。

 

スペイン語のことわざに、
「悪魔はすることがないと、
 尻尾でハエを殺している。」
と言うのがある。
要するに、悪いことをする奴は、
ひまな時でも、悪いことをし続けるものだ、
と言うような意味だろう。

 

日本語で言えば、
「小人閑居して不善をなす」と言うことかな。

 

そう、コロナウイルスのおかげで、
営業ができず、時間ができたので、
これを機に、普段できなかった、
いろいろなことをやろうと思っていた。

 

日頃の運動不足を解消するために、
少しは筋トレをやってみよう。
一月に行ったスペインで実感したので、
スペイン語の勉強をしよう。
これを機に、村上春樹の小説を一気に読もう。
まるでゴミ箱のような、
自宅を整理しよう。
畑の野菜も、しっかりと育てよう。

 

ところがところが、
実際には、そんなところでなかった。
店の掃除や修理。
いすの修復や、大工さんに頼んで、
床の張り替え。
店内の掲示の書き換え、
パンフレットの作成。
ホームページの内容の書き換え。
なんぞをやっていたら、
あっという間に、日々が過ぎていくのだ。

 

いちばん精力を使ったのが、
お役所言葉の翻訳だ。
これがねえ、実に不思議で、よく理解できない。
しかしながら、正当な補助は受けるべきだと思うので、
なんとか書類を自力で作り上げた。ふう。

 

で、やりたいことができない、
いちばんの原因は、不安。
どなたでも感じていることに違いない、
見通せない将来への不安なのだね。

 

ここで、誰かの悪口を言っても仕方がないし、
かえって惨めになるだけ。
とにかく、目の前にあることを、
淡々とこなしていくしかない、
と割り切るようにしている。

 

そんな中、救いになったのは、
近所の河原に育っている、
四匹のキツネの子供達の姿だ。
こんな人の近くに、
誰でもが見られるような場所に、
用心深いキツネが
子育てをしている。

 

何しろ朝早く出なくては、
見ることができない。
だから、朝5時前に起きて、
川沿いの遊歩道に出かけるのだ。
ああ、眠い。

 

驚いたのは、
その時間に、すでに多くの人が、
河川敷を歩き回っているのだね。
高校生の陸上部は、
ほぼ休みなしで練習している。
カキンという甲高い音を立てて、
ゲートボールのコースを回っている人もいるのだ。

 

夜行性のキツネは、
朝に眠りに入るらしい。
最初は、遊びまわっていた子供たちも、
やがて寝姿しか見られなくなった。
これから草が育ってくれば、
そんな姿も見られなくなるかもしれない。
通りかかる人も、今日は何匹見える、
とか言いながら、優しく見守っている。

 

そんなことで、
これだけ休んだのに、
体重は減らなかったし、
村上春樹も読めなかった。
家の中も片付いていない。

 

自分で取る休みと、
取らざるを得ない休みでは、
全く意味が違うのだね。
ズペインのことわざのように、
私は尻尾で、ハエを殺し続けていただけなのかなあ。
意味のある休みが取れるように、
なれることを。

 

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母ギツネは、さすがに警戒している。

 

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スペイン人にそばを食べさせるには、、。

私たちがスペインを訪れたのは、
この一月だった。
旅行にはオフシーズンとなり、
航空機もホテルも安い。
ということで、
貧乏の海にアップアップしている私たちでも、
やっと、行くことができたのだ。

 

今になって、
多くの人から、
いい時期に行ってきたね、
と言われる。
全くその通りだ。

 

一月のスペインでは、
街中でマスクをしている人の姿はなかった。
それが、一ヶ月後には大流行を起こし、
今や二十三万人が感染し、
二万八千人近くが亡くなっている。
人口十万人あたり50人が感染しているので、
かなりの高率となるようだ。

 

でも、このコロナ騒ぎがなかったら、
日本を訪れていたスペイン人が、
かなり居たのではないかと思われる。
私の二週間の旅行期間で、
日本に行きたいと言ったスペイン人に、
3人も出会ったのだ。

 

一人は、スペイン国内戦の飛行機内。
到着寸前に、隣の席の女性が話しかけてきた。
私のスペイン語の能力で聞き取ったところでは、
5月に会議に出席するために、東京に行くという。
その後、京都にも寄って見たいという。

 

みると、彼女の読んでいた本は、
日本の文化を紹介するものだった。
私は、5月ならば、暑くもないし、
日本を旅行するには、いい季節だと答えた。

 

二人目は、首都のマドリードで借りた、
アパートのスタッフの女性。
部屋の設備や、街の様子などの説明をした後、
来年の初めごろ、日本に行くつもりだと言う。
まだ若い彼女は、ぜひ、
東京の街を歩いて見たいと言うのだ。
ちょうど、私たちがマドリードの人混みを、
歩きたかったようにね。

 

三人目は、マドリードの中心地で、
観光客もよく来る、人気のレストランで会った。
折しも、中国の人たちがたくさんいた中で、
私たちのところに来たスタッフの兄ちゃんが、
「私は、今、日本語を勉強しています。」
と、まさに、日本語で話したのだ。

 

そして、10月ごろに、日本に来ると言う。
まず、東京、京都、神戸、広島、
そして友人の居る沖縄へ行くのだと、
見事な日本語で説明してくれた。

 

たった三人だけだったが、
日本に興味を持っているスペイン人が、
増えていることの実感となった。
何しろ、私がスペイン語を学んだ三十年前ごろには、
日本は、中国の一部だと思っているような、
スペイン人ばかりだった。

 

それが、街を歩いても、
日本料理店が増えたし、
フードコートなどでは、
スシが普通に売られている。
日本語で「ラーメン」と書かれて店もあり、
けっこう、混み合っていた。

 

東京とマドリードを、
乗り換えなしで行ける直行便も運行され、
スペインと日本との行き来が、
盛んになっているのだなあと思う。
まだまだ、僅かではあるけれど、
スペイン人の中に、
日本という国を意識する人たちが、
増えていることは、嬉しいことだ。

 

なのに、
このコロナ騒ぎて、
外国旅行どころではなくなってしまった。
彼らの計画はどうなったことだろう。

 

今は、じっと足元を見て、
目の前のことに、対応していくしかない。
でも、この状況が、
いつまで続くのかわからないが、
夢を持ち続けることは大切だ。
多くの人の思いが、
宙ぶらりんになってしまったが、
遠い世界を、見続ける気持ちは持ち続けたいね。

 

私も、スペインの人たちが、
日本にやってくるようになった時に、
どうやって「そば」を食べて貰えばいいか、
じっくりと、考えておくことにしよう。

 

ということで、
マドリードで借りたアパートの紹介。
4人で泊まったけれど、
ベットルームもシャワーも2つづつあり、
キッチン、洗濯機もあり快適だった。
場所はスペイン広場のすぐ横で、
中心部といっていいだろう。
三泊で7万円余り。

 

待ち合わせの約束と、
部屋の説明などを聞くので、
多少のスペイン語、または英語が話せることが必要。
ほとんどのところで、英語が通じるようだ。
少し旅慣れた人だったら、
ホテルより気軽で楽しいと思う。

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キッチンには、調理器具も食器もある。

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豊富な果物と生ハム、卵で朝食。

すぐ近くにスーパーがあった。

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夜のマドリードの人ごみ。

バルは、どこもたくさんの人だかり。これならコロナも一気に広まることだろう。

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何かが、変わっていくかもしれない。

未だに営業自粛が続いている。
まだまだ先が見通せない様子。
営業できるようになるには、
相当時間がかかることを覚悟しなければならないだろう。

 

みんなが行動を自粛して、
感染者が減ったところで、
この病気そのものがなくなる訳ではない。

 

この病気への確実な治療法が確立される。
ワクチンなどの予防法が広く行われる。
多くの人が、この病気の免疫を持つ。

 

そのようにならない限り、
今まで通りの世の中に、
戻れないだろうなあ。

 

百年近く前の関東大震災では、
東京の街は大打撃を受けた。
飲食店の多くは、廃業せざるを得なかったそうだ。
多くの料理人が地方に帰ったので、
東京の料理が、全国に広まるきっかけになった、
という説もあるそうだ。

 

そば屋の世界では、
この後に、製麺機が一気に普及したという。
再建を機に、合理的な営業を目指したのだね。

 

太平洋戦争中も、
飲食店は営業できなくなった。
戦後になっても、
数年間は食糧難が続いたそうだ。

 

そば屋はそば粉が入らず、
配給の小麦粉でうどんを打って、
店を支えていたという。

 

この時に広まったのが混合機、
つまりミキサーだ。
この器械がないと、営業の許可が下りなかったという。
かくして、そばの世界から「手打ち」が消えてしまったのだね。

 

また、以前のようなそばの専門店ではなく、
うどんも、丼物も置くような、
広い意味での食堂、
という、そば屋が増えたのだそうだ。
時代の変化に対応して行ったのだね。

 

さて、今のこの状態の中でも、
忙しい仕事はあるようだ。
また、多少は支障のあるものの、
業務を続けられている方もいらっしゃるだろう。

 

でも、飲食店は手も足も出ない。
でも、悶々としている訳にもいかないので、
少しはもがいてみることにしよう。

 

この世界的な災難の後には、
私たちの意識や行動が、
大きく変わるかもしれない。
世の中のしくみも、世界の力関係も、
変化を見せるに違いない。

 

そんなことを考えていると、
毎日が、結構忙しい、、、のだ。
まずは、歩き回って、身体を鍛えておくことにしよう。

 

ということで、近くの裏山歩き。
そこから見えた鹿島槍ヶ岳です。
登山もしばらく自粛ですね、、、、。

 

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