手打ちそば屋は眠れない

十割を打つには、特別の技があるわけではない。

そばうちを趣味にしていらっしゃる方も多いようで、
先日も色々と質問をされる方がおられた。
なんでも、二八で練習しているのだが、
十割のそばを打てるようになりたいとのこと。
ついては、十割で打てるコツがあるかとのこと。


私は別に、二八だろうが十割だろうが、
打ち方に変わりはないと思っている。
ただ、十割で打つ時のそば生地は、
二八に比べて伸びにくいので、
無理な力をかけると、切れたり穴が開くことがある。
だから、ていねいに、基本通りに伸ばさなくては。


そのためには、木鉢で、均一な水回しと、
しっかりとした捏(こ)ねができていなければならない。
逆にいうと、二八そばで、基本的な打ち方ができていれば、
十割でも自然に打てるはずだ。


私自身、週に一回「粗挽き十割そば」の日を設けているのも、
そんな基本の打ち方ができているか、
自分で確認するため。
人間、すぐに怠けるからね。
(あっ、私だけか。)


十割は湯ごねにする方もいらっしゃるけれど、
湯ごねにすると食感が変わるので、
まあ、その方の好みだろうね。
ただ、更科粉や粗い粉を打つときには使うので、
覚えておいた方がいい技術。


そばに使うつなぎ粉は、小麦粉が使われるが、
その種類も多い。
パンや、うどんに使われるような、
香りの高い小麦粉は、そばには向かないようだ。
つなぎ粉が足らなくなったからといって、
家庭用の小麦粉を混ぜても、
うまくいきませんよ。


前にも書いたけれど、
十割だからうまいとか、
高級だとかいうことはない。
むしろ、端正に打たれた二八そばの方が、
はるかにそばのおいしさを味わえると思う。
そばらしい、手繰り上げる醍醐味を楽しめる。


だから、角の立った、
キレの良い二八そばを打つことに努めましょう。
そうすれば、十割でも、
すんなりと打てるようになるはず、、、。

 


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そばとウクライナ紛争との影響は。

全世界での生産量は290万トン。

これはトウモロコシの11億5千万トン、
小麦の7億6千万トン、
米の4億8千万トン
に比べれば全く微々たるものだ。

統計の出ている2018年の数値では、
生産量の順位は、
1、中国」 113万5千トン
2、ロシア 93万7千トン
3、フランス 18万8千トン
4、ウクライナ 13万7千トン
  ・
  ・
  ・
10、日本  2万9千トン

これ、もちろん、そばの生産量の話。
この年は、たまたま中国がトップになったが、
その前の年まで、
ずっとトップにいたのは、ロシアの方だ。

日本の国内でのそばの需要は、
約13万トンと言われている。
国産は3万トン弱しかないので、
残りの10万トンは輸入されている。
そのほとんどが中国からだが、
ロシアからも年に1万トンを買っている。

ロシアはそばの生産量が多いのだから、
もっと取引があっていいはずなのだが、
そうもいかないようだ。
ロシアでは、主に、
そばの実のお粥(カーシャというらしい)や、
パンケーキにして食べられているという。
ところが、同じそばでも、
なかなか、日本の蕎麦に向くものが、
少ないそうだ。

それでも商社の方々が苦労して、
ロシアからの輸入が始まったのが、
10年ほど前のこと。
あまり質が評価されないので、
主に加工用として使われているという。

ロシアとウクライナを巡る、
不幸な出来事の勃発によって、
日本のそばの事情に影響するのではないか、
ということを心配される方も、
いらっしゃるようだ。

でも、数字で見れば、
このような状態なので、
普通に店で食べられるそばには、
ほとんど影響がないと、
考えていいのではないかな。

むしろ、問題なのは、
ここ一、二年で外国産、
特に中国産の輸入蕎麦粉の価格が、
急上昇しているのことだ。

これは、その国の事情もあるが、
世界的に、輸送コストが上昇しているという理由がある。
そう、コンテナ不足や、
燃料費の高騰などだ。

今度の紛争が、
さらに、そういう事情に拍車をかける、
という可能性はある。
だから、日本のそば業界も、
恐れをなしているところらしい。

今まで、安価な外国産の蕎麦粉を使っていた、
値段で勝負していたような店は、
値上げ対応を迫られるかもしれないね。

今まで、高くとも、
国産の蕎麦粉を使い続けていた私としても、
黙ってはいられない。
つい、ざまを見ろ!
と言いたいのだが、
そんなことは口が裂けても言ってはいけない。
(ここ、消しておいてください)

今の日本は、多くの食品を、
外国の産物に頼っている。
だから、何か変事があったときには、
大きな影響を受ける可能性があるのだ。

日本の国の中では、
まだまだ、たくさんの食物を作る余力があるのに、
どうして、
遠い外国で作られたものの方が、
安く手に入るのだろう、、、。

そういうことを、
根本的に、考えなければね。
いや、考えるだけでなく、
改善していかなければ、、、。

みなさん、
国産のそばを食べましょうね。

 

 

 

 

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「そばの花」は秋の季語。

ご存知のように、今、そば屋を含めて、
外食産業は、大きな危機を迎えている。
何かを書こうとすると、
つい、誰かを責めたり、
愚痴をこぼしてしまったり、
ということになるので、何も書けなかった。

ということを言い訳にして、
ブログの更新をさぼってしまった。
すみません。

長野ではもう、そばの花が咲き始めたようだ。
先日、信濃町方面に行かれたというお客様が、
そうおっしゃっていた。
北海道では、もう収穫が始まっているらしい。
そう、もうじき、新そばの季節。
気持ちを切り替えて、
前を向きたい、、、ところ。

ということで、そばの花の俳句なんぞ。

 


「蕎麦はまだ花でもてなす山路哉」
            芭蕉

そばの花と言っても、
見たことのない方にはわかりづらいようだが、
白い花が一面に咲き誇っているので、
一度ご覧いただくと理解いただけると思う。

 

「信州の浄土の白さ蕎麦の花」
          鷹羽狩行

そばの花の白さは、確かに目を引くようだ。
陽に照らされ、遠景に山でも入れば、
さらに、清らかに美しくも見えるだろう。
浄土のようにというぐらいだから。
でも、それは、都会から来る旅人の目。

 

「しなの路やそばの白さもぞっとする」
           一茶

信州育ちの一茶にとっては、
そばの花の白さは、
来たるべく雪の世界を想像させる。
その冬の厳しさに、今からゾッとしているのだね。

 

「暮れても蕎麦の花があり月があり」
           荻原井泉水

この句を読むと、
夜の桜もいいが、月に照らされたそばの花も、
なかなか風情を感じさせる。
そばの白さは、薄暗闇にも、浮くような気がする。

 

「秩父路や天につらなる蕎麦の花」    
           加藤秋邨

そばの産地として知られる秩父。
山の上の方までそばを栽培していたのだ。
今では見られない、少し昔の光景だろう。

 

「いかめしき門を這入れば蕎麦の花」
           夏目漱石

屋敷の中で、そばを栽培していたのだろうか?
鑑賞用に植えることはないと思うので、
そばの畑があったのだろう。
漱石の時代には、まだ武家屋敷が残っていて、
屋敷内にそこそこの畑があったのかもしれない。
そばを育てるなんて、いかめしい門のわりに、
庶民的な主人なのかもしれない。

 

最後はやっぱり、もう一度、一茶。

「そばの花江戸のやつらがなに知って」
               一茶

厳しい山国の暮らしも知らず、
何を言ってやがるんだ、江戸の奴等め。
いいなあ、一茶の、この意地っ張りなところ。

信州では、今を盛りのそばの花。
機会があれば、ぜひ、眺めていただき、
一句なんぞを、、、。

 

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石臼には、目がある。ならば、、、。

さて、江戸時代の終わり頃、
今から160年ほど前のこと、
江戸には4000軒近くのそば屋があったという。
当時の人口、およそ120万人と比べてみても、
かなりの数だろう。

まだ動力の無かった時代。
そばは、人間の力で粉にされていたらしい。
そば屋には、調理場の他に臼場という場所があり、
そこで、職人たちが一日中、臼を回していたという。
一つの臼で挽けるそば粉の量は知れているので、
一軒のそば屋だけでも、
何人もの人足を抱えていたことだろう。
とすると、随分の人数が、そば屋の営業に、
関わっていたことになる。

そのころの江戸では、
西部の中野にそばの問屋があったそうだ。
江戸に入るそばは、一度中野に集まり、
ここで、皮を剥かれたそばの実が、
江戸中に配られたという。

ここを流れる神田川を使って、
水車による製粉も盛んだったそうだ。
もっとも、水車は突き臼による製粉となるから、
そばにはあまり向かなかったらしい。

それにしても、手回しで、
そば粉を作る作業は、大変な労働だったことだろう。
明治になって、動力が普及すると、
一気に機械製粉が広まった。
効率の良いロール式製粉も行われるようになって、
石臼は次第に使われなくなってきた。
石臼を回していた職人たちも、
仕事を失ったに違いない。

そうして、役目を終えて捨てられた石臼を、
哀れに思った人もいる。
製粉の盛んだった中野にある、
宝泉寺には、その石臼を祀った、
「石臼塚」というものがあるそうだ。
食べ物を扱った道具が、見捨てられているのを見て、
心を痛めたご住職が、
昭和の初めに作られたのだそうだ。

一時は廃れた石臼製粉だが、
近年見直され、質の良いそば粉を作るために、
製粉工場でも、使われるようになった。
そば粉でも、量より、質を求められるようになってきたのだね。

よく、昔と同じように、小さな石臼で、
手で挽いたそば粉を使った方がうまい!
とおっしゃる方もいる。
そういう方法で、そばを作っている店もあり、
それはそれで、味わい深いものだ。
でも、それを、毎日食べろと言われると、
私は、ちょっと引いてしまう。

今は、製粉の技術が発達し、
昔より、はるかに質の良いそば粉が、
手に入るようになった、、と思う。
そばを挽くというと、
石臼ばかりが頭に浮かぶが、
実は、その前後にも、とても手間のかかる作業があり、
そばの製粉は、その複雑な工程の組み合わせなのだね。

製粉工場に見学に行ったら、
グルグル回る何十台もの石臼に、
一つだけ、逆回りに動いているものがあった。
聞いてみると、石の目がそうなっているののだそうだ。
なるほどねぇ。
石の目の方向まで考えているのだ。

石に目があるのなら、
きっと、耳や、鼻もあるに違いない、
などと、進歩のないことを考えていたりして、、、。

 

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「そばなんて、大嫌いだ!見たくもない!」

製粉屋の社長さんが嘆いていた。
この頃はソバを挽くための、
石臼になる石が、手に入りにくくなっているらしい。
今は、墓石さえも、
中国や韓国から輸入されている時代。
質の良い石を切り出している、
国内の業者さんが、なくなっているのだそうだ。
ましてや、ただでさえ需要の少ない、
業務用の石臼を、切り出してくれるところがないという。
大きな声では言えないが、
外国産の石臼も、
既に使われているらしい。
ソバをめぐる世界も、
どんどん国際化が進んでいるのだね。

今のような石臼が使われ始めたのは、
江戸時代半ば以降だといわれている。
溝を切ったを石を上下に合わせて、
回転させることによって、粉を得るという
とても合理的な方法だったのだ。

ここ長野でも、
昭和の初めの頃までは、
石臼は、嫁入り道具の一つだったと言う話を、
聞いたことがある。
特に長野のある、善光寺平は、
昔は麦の産地であり、
小麦を挽くのに使われたのだね。

そして、長野独特の食べ物である「おやき」や、
すいとん、薄焼きなどにして食べられたと言う。
だから、長野は今でも、全国の県庁所在地の中では、
家庭での小麦粉の消費量が、トップなのだそうだ。

もちろん、この頃は、家庭で石臼が使われることはない。
古くから住んでいるお宅に伺うと、
この石臼が、庭石や飛び石に使われているのを、
多く見かけるので、やはり、
各家庭にあったもののようだ。

石臼がソバを挽くのに使われたのは、
主に、小麦の採れなかった山間部のようだ。

若い頃働いたホテルで、年配の人たちに、
いろいろと話を聞いた。
そのうちの、戸隠から来た人は、子供の頃は、
とにかく、そばばかり食べさせられたと言う。
普段食べるのは、つなぎ粉のない十割で、
ボソボソのそばを、味噌汁の中に入れて食べたそうだ。
全く美味しいくなかったらしい。

それが、何かのハレの日、
つまり、お祝いや祭りのあるときには、
小麦粉を買ってきて、つなぎに使った。
その時は、ツルッとしたそばが食べられて、
それは美味しく感じたと言う。

戸隠そばは、いまでも七三が基本。
もちろん、店によって違うが、
そば粉二杯に、小麦粉一杯という割だ。
つなぎを入れたそばを打つことが、
戸隠の人にとっての、おもてなしなのかも知れない。

家では、夕食後、子供たちが、
次の日のそばを、石臼で挽くのが習慣だった。
いくらグルグルと回しても、
そばは、少しづつしか粉にならない。
眠いのと、退屈な作業に、
嫌で嫌でたまらなかったという。

だからね、
長野周辺の山の中で育った人の中には、
「そばなんて、大嫌いだ!
 見たくもない!」
という人が、結構いるのだ。
そう言う人に何人も会ってきた。
口にはしないけれど、
そばは金を出して食べるものではない、
と思っている人も、たくさんいることも事実だ。

もっとも、そういう経験をされたのは、
もう、かなりのご高齢の方々ばかりだが。

長野はそばの産地と言うけれど、
実は、そんな事情もあって、
独自のそばの文化が、あまり育たなかったような気がする。
自分たちでそばを楽しむというよりも、
それしかないから、仕方なしに食べていた、
いや、食べさせられていたのだね。

石臼の話を書こうと思って、
脱線してしまった。
それは、またの機会に。

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北国街道40キロを歩く。二日もかけて、、、。

「乗り物は速くなった。
 人は孤独になった。」

チャップリンの映画の中のセリフに、
そんな文句があったと、
覚えている。
かなり、あやふやだが。

一月の終わりに、やっと正月休みをいただいた。
本来ならばこの時期は、
怒涛のような正月の混雑を終え、
やっと、肉体的にもほっとできる時期であった。

ところが今年は、
怒涛どころか、べた凪の、
新年となった。
無理をしてきてもらったスタッフ共々、
顔を見合わせて、暇疲れ。

コロナウイルスは、
善光寺への、初詣まで止めてしまったのだね。

そこでいただいた休みも、
遠くに出かけるわけにもいかない。
そこで、自宅から、上田まで、
古い街道、北国街道を歩いてみることにした。

何しろ自宅は、
丹波島という、昔の宿場跡の近くにある。
そこから、車のびゅんびゅんと通り過ぎる、
細い道や、国道沿いを、
地図を見ながら、古い街道と思われる道を、
歩き続けた。

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道沿いは、家がびっしりと建っているが、
自動車以外に行き交う人の姿はない。
マスクをとって、歩いていると、
この時期なのに、じわっと、
汗ばんでくるぐらいなのだ。

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丹波島宿から、篠ノ井宿、
篠ノ井追分宿、矢代宿、そして戸倉宿へ。
宿場の面影を残しているものは、ほとんどない。
そして、20キロ余りを歩いて、
この日は、上山田温泉泊。

次の日は、うっすらと雪の降る中を、
上戸倉宿から広い通りに面影のある坂木宿、
観光客に人気の柳町のある上田宿を通って、
上田駅へ。
やはり20キロ余り。

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本当に、人と行き合わない。
家から出てくるのは、
車に乗った人だけで。
歩く人の姿は、全く見かけないのだ。

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北国街道は、
軽井沢の追分で中山道と別れ、
千曲川沿いに長野を通り、
峠を越えて新潟、上越に至る道だ。

加賀の前田家も、江戸への参勤に使ったらしい。
佐渡で採れた金も、
年に数回、この道を通って行ったそうだ。
かっての難所と言われた、
坂城の横吹も、上田の岩鼻も、
国道沿いに難なく過ぎていく。

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それでも、歴史を感じさせるものは残っていて、
坂木宿広い通りや升形、
上田のうだつの残る町並みなどが面白い。
中でも、上田の上塩尻地区は、
養蚕が盛んだったところで、
今でも、大きな越屋根のついた蔵がいくつも、
綺麗に保存されている。

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なるほど、歩くスピードで街を見てみると、
いつもとは、違ったものが見えたきた、、かなぁ。
この歩いた40キロ余りは、
上田駅で新幹線に乗れば、
12分で過ぎてしまう。
シャクだから、普通電車に乗っても40分。

そして、痩せたかといえば、
全く、、、、。
こんなバカなことをやって、
せっかくの休日を潰してしまった。

、、、また、やろう。

 

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更科そばは、高級そば屋だった。

 更科の蕎麦はよけれど高稲荷
   森を睨むで二度とこんこん

蕎麦研究家の岩崎信也さんの「蕎麦屋の系図」という本に、
こんな、江戸時代の狂歌が載っている。
大田南畝(蜀山人)の作であると言われているが、
はっきりとは、わからないそうだ。

そのそば屋の裏には、稲荷社があり、
高稲荷と呼ばれていたそうな。
だから「高いなり」とひっかけ、
森を「そばの盛り」とみて、
二度と「来ん来ん」と狐の鳴き声にかけている。

このそば屋、
よっぽど値段の高かったようだ。

信州更科蕎麦所布屋太兵衛
しんしゅうさらしなそばどころぬのやたへい

という屋号のそば屋。
創業は1790年と伝えられているから、
江戸は終わりに差し掛かる頃の時代。
創業者は、大名相手に布を売っていたので、
屋号も「布屋」を名乗ったのだね。

もともと信州の出身なので、
当時からイメージの良い信州を頭につけた。
そして更科(さらしな)という言葉を使った。
このいわれには、いろいろな説があるようだ。
ものの本によると、信州更級(さらしな)の地は、
そばの集積地として有名だったから、
その名を取ったのだと。

信濃の更級は、遠く万葉集や古今和歌集にも、
取り上げられる、風光明媚な月の名所。
芭蕉も信州の旅日記を「更科紀行」としている。
場所としては、長野市南部から、
千曲市、坂城町あたり一帯だろう。
かっては、この辺り一帯を、更級郡と呼んでいたのだが、
近年の、市町村の合併により、
この名、地名は地図から無くなってしまった。

でも、この辺りに、蕎麦が集まったとは、
あまり考えられないなあ。
それほど、交通の便の良い地域でもない。
もちろん調べてみなけらばわからないが。
一部に幕府の直轄領があったとしても、
ほとんどが松代藩の領地となっていたようだ。

それに、そばに、「さらしな」という言い方をするのは、
それよりも前にあったようで、
創業より40年前に書かれた本にも、
「さらしな」を看板にするそば屋が何軒かあったという。

商売をするには、
競争相手とは違うことを特徴付けることが大切。
おそらく、布売りをしていた太兵衛は、
そのことを意識して看板を掲げたのだろうね。

場所は、麻布で、一方は大名の屋敷の並ぶところ、
一方は、商家の続きところだというから、
高級にして、調度や備品にも気をつけて、
当時としては高額なそばを売り始めたのだろう。

見事に太兵衛の思惑は当たり、
店は評判となる。
江戸時代が終わって、明治になっても、
店は繁盛し続ける。
そして、その間に、さらに、
粉の製粉方法などを工夫して、
今日の、白い、更級そばの、
元を作っていくのだね。

この店は、昭和の初め、
七代目まで続いていく。
この七代目が、、、
私にとっては、とても魅力的な人なんだなあ、、。
という話は、またいつか。

 

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豆腐の角に、、、そばの角に頭をぶつけて、、、めえ!!

カウンターにお座りになったご婦人が、
こんなことをおっしゃる。
「わて、大阪やさかい、
 そばはよう食わん。
 いつもうどんばかり。」

 

そう言いながら、
いざ、そばをお食べになると、
見事な食べっぷり。
すっと、そばを口にたぐり込むと、
舌の上を滑らせて、
喉に落とし込んでいく。
まさに、生粋の江戸っ子の、
そば通の食べ方そのもの。

 

そして、
「そばの方が、角があって、
 気持ちいいなあ。」
などとおっしゃるのだ。

 

この方、いつも、うどんも、
噛まずに召し上がるのだろうか。

 

と思って、後で、他の方に聞いてみたら、
関西や四国では、
噛まずに召し上がる方が、
結構いらっしゃるのだそうだ。
、、、知らなかった。

 

うどんは、そばより太く、
小麦粉を使うこともあり、
ゆで時間はかなり長くなる。

 

そのため、
どうしても、角が取れて、
麺が丸くなりやすい。
だから、ツルツルと食べやすくなるのも確かだが、
やはり、うどんの角の立っているのを好む方も、
多くいらっしゃる。

 

そこで、うどん屋さんでは、
茹で汁にある工夫をして
角が溶けないようにしているのだね。

 

西日本にある、うどんの製麺屋さんも、
大いに研究して、面白いことに気づいたそうだ。
うどんの断面を、正方形にするよりも、
やや長方形にした方が、
角が立って、食感がいいというのだ。
その方の説では、10対7ぐらいが、
一番食べやすいのだそうだ。

 

なるほど、うどん、恐るべし。

 

などと負けてはいられない。
そばの話に戻さなければ。

 

というのは、そばの世界では、
長方形の方が、喉越しがいいことは、
先刻承知なのだ。

 

江戸そばの太さの標準とされるのが、
「切りべら二十三本」。
二十三本というのは、
一寸(約3㎝)の幅の生地を、
23本に切ること。
つまり、1.3ミリの太さの麺となる。

 

切りべらというのは、
伸ばした厚みよりも薄く切ること。
例えば、1.5ミリに伸ばした生地を、
1.3ミリに切るということだ。

 

結果的に、切り口は長方形になる。

 

これを、伸ばす手間を省いた、
職人の逃げという人もいるが、
昔の人も知っていたのだろう、
そうした方が、そばの食感が良くなることを。

 

なお、極端な切りべらは、
麺が蛇のように、暴れるので良くない。
また、生地の伸ばしの方を薄くした「伸しべら」は、
食感が極端に悪くなるようだ。

 

戦後は、そばの手打ちが無くなり、
ロール式のそば打ち機が主流になった。
これで細めのそばをつくると、
みんな丸い麺になってしまう。
そのせいか、食感を大切にする、
そばの食べ方が、だいぶ廃れてしまったようだ。

 

多くの方が、
そばを、ご飯でも食べるように、
口に含んで、くちゃくちゃと噛んでいる。
せっかくの、手打ちのそばの食感を、
舌の上を滑らす感覚を、
もっと味わっていただきたいと思っているのだが。

 

あの、大阪の女性のように、
うどんを召し上がる西日本の方々のほうが、
その点をご理解いただいているのかな、
、、、などと思ってみたり。

 

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霧ヶ峰のニッコウキスゲは鹿に食べられている。

毎日雨が続いて、
夕方の散歩にも出られない。
コロナウイルスの感染拡大で、
お客様にも、いらっしゃいとも言えない。
畑は草だらけ、
おまけに、野菜だけはたくさん出来て、
ご近所に配って歩いている。

 

世に難解な、「霞ヶ関語」を理解しない私に、
小役人は、意地悪ばかり(そんなことはないのだろうが)で、
なかなか給付金をくれない。
と言って、誰かの悪口を言ったところで、
何の解決にもならない。

 

ということで、
とても「だるい」。
身体ではなく、気持ちがね。
このまま腐れさてはいけない。
何とか、役に立つように発酵させなければ。

 

そんな中、天気を気にしながら、
気分転換に出かけたのが、
長野から車で二時間ほどの観光地、
霧ヶ峰(きりがみね)だ。

 

この季節であれば、
いつもなら、霧ヶ峰に向かう観光道路、
ビーナスラインは、団体客を載せた大型バスが、
頻繁に行き交っているはず。
初心者向けの山道は、
学生や生徒の集団登山で、
押し合い、へし合いしているはずだ。

 

三、四十年も前に、
高い通行料金を払って、
ニッコウキスゲを見にきた私は、
花よりも多い人の数に、辟易してた。
そして、ここには近寄らない方がいいなと、
きめていたのである。

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でも、この頃は、観光の質も変わってきて、
霧ヶ峰も落ち着いてきたという話を聞いた。
ましてや、この、コロナ騒ぎ。
観光バスも、学校の集団登山もないだろうな、
と思って出かけてみた。

 

雨を覚悟で行ったのだが、
何とかの曇り空。
遠くまでの遠望はなかったが、
ぼんやりと八ヶ岳、南アルプスの一部が見える。

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かっては車山一面に咲いていたニッコウキスゲも、
今は、ほとんど見かけない。
何でも、野生の鹿が増えたために、
他の高山植物も含めて、
食べられてしまったそうだ。
だから、柵に囲まれた一部にしか、
ニッコウキスゲも、ハクサンフウロも咲いていないのだ。

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ということで、車山から、八島湿原まで一回り。
車山は、スキーで何度も来ているのに、
一度も展望に恵まれたことがない。
登ってみれば、なだらかないい山だ。

 

この霧ヶ峰の景観は、
自然に出来たものではない。
標高で1800メートル前後だから、
森林限界を超える高さではないのだ。
麓に住む人たちによって、
何百年も前から、牛馬のための草刈り場として、
木が育たないように、手入れされていたそうだ。
近年では、野焼きも行われている。

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広々とした草原を、
いくつかのぼり下りして、
八島湿原の獣避けゲートを潜ると、
いきなり湿原の花盛りとなる。
ここは駐車場も近いので、
観光の人たちが来ていたが、
以前ほどではない。

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それで、
一時間以上かけて一回りして、
またゲートを出ると、
まったく花の姿が見当たらなくなるのだ。
鹿って、すごい食欲なのだね。
っていうか、それだけの数がいるっていうことだ。
登山道でも、ずいぶんと鹿の足跡を見かけた。

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今年は、
山登りも、リスクを抑えるようにとのこと。
そんなことで、
こんな観光地の山を楽しむことにした。
まだまだ、コロナウイルスの影響は続くだろう。
とにかく自分の気持ちを、
たまにはかき混ぜてみて、
腐らないようにしなくては。

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屋号で呼ばれなかった、初代の藪蕎麦。

全国的に深刻な飢饉に苦しんだ天保年代。
江戸は団子坂というところに、
一軒のそば屋が暖簾をかけた。
そう、今から180年~190年ぐらい前のこと。

 

なんでも、主人は武士だったのが、
町人となって、商いを始めたという。
その主人の名前は正確には残されていないが、
屋号は「蔦屋」(つたや)といったそうだ。

 

太めのしっかりとしたそばを、
青竹で編んだ五、六寸の平ざるに盛ったという。
酒のあてには「あたり芋」が評判だったらしい。
あたり芋とは、すり下ろした山芋のこと。
縁起を担いで、江戸の商人は「する」という言葉を避けたのだね。
今でも「ゴマをあたる」というでしょ。

 

土産用のそばを、やはり、竹籠に入れて、
提げて持ち帰られるようにもしたらしい。
汁は、竹筒に入れられたそうだ。

 

この店の裏には、広い竹藪があって、
そこから切った竹を使ったのだ。

 

この近所には、植木屋が多く、
菊の時期には、大勢の人が見物にきた。
だから蔦屋は大繁盛をしたのだね。

 

だけど、誰も、このそば屋の屋号を呼んでくれない。
「藪(やぶ)のそば屋」
または「藪そば」と呼ばれたのだね。
そこで店も割り切って、
「団子坂藪蕎麦、蔦屋」という看板を掲げるようになったとか。

 

この店は三代続いた。
明治になってからは、ずいぶんと支店を増やし、
また店は、かなり大きなものになったらしい。

 

それが、明治39年(1906年)に廃業してしまう。
相場で失敗したからという話もあるが、
はっきりとした理由はわからないそうだ。
店主はその後、満洲へ渡り、
何軒かの蕎麦屋を持ったらしいが、
消息は途絶えてしまったようだ。

 

この蔦屋の支店を買い取って、
伝統を引き継いだのが今の「神田藪蕎麦」ということになる。
江戸そばの名店と言われるところだ。
でもここの本来の流れを汲む一門は、ごく数軒でしかない。

 

しかしながら「藪蕎麦」または「やぶ」を掲げるそば屋は、
日本中にたくさんある。
すべてが、さかのぼれば「蔦屋」に繋がるわけではないだろう。

 

江戸時代から明治時代まで、東京には、
竹藪がたくさんあったそうだ。
だから、本来の屋号ではなく、
「藪の内」「藪」と呼ばれるそば屋は、
蔦屋以外にもあったようだ。
だから「藪蕎麦」という屋号を持っていたからと言って、
そのそば屋が、一つの系列の元にあるとは限らないとのこと。

 

藪といえば、ある職業にとっては禁句だが、
そば屋にとっては、奥ゆかしさを感じさせる名前。
そのイメージゆえに、全国的に、
名が広まったのだろうなあ。

 

写真は、その伝統を受け継ぐ店のひとつ、
「上野藪蕎麦」のもの。
ここの汁は藪一門の中でも、
それほど辛くない。
手打ちを復活させ、
気楽な雰囲気ながら、きちんとした、
江戸蕎麦を楽しませていただいた。

 

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