そばコラム

「運そば」は博多の街から

●またまた、昔々の物語。
今回は、「年越しそば」の縁起にまつわるエピソード。
へえ、博多では、「年越しそば」のことを、
「運そば」とか「福そば」とか呼ぶんだね。

さて、今からおよそ800年近く前のこと、
というと、鎌倉時代半ばの頃のお話。

その年、九州は博多の街は、
疫病が流行り、恐ろしいほどの不景気に落ち込んだ。
もう正月だと言うのに、人々は食べるものもない有り様。
これでは、新しい年への希望など持てそうもない。

いよいよ明日は新年を迎えると言う日に、人々の間を、
「承天寺(しょうてんじ)にお出で、承天寺にお出で。」
と触れ回るものがある。
さて、食べるに困った人たちが、
何事かと承天寺に駆けつけたところ、
山と積まれた袋の中から、
白っぽい粉を掬いだして分け与えてくれている。

「これは、いったい何なんだい。」
「食べるものらしいけれど、どうやって喰うんだ。」
と戸惑う人たち。

そこで、姿を現したのが、
地元の豪商、謝太郎国昭(しゃたろうくにあき)。

「皆さん、これは世直しそばです。
 お湯と塩を入れて、かき回して召し上がれ。」

さて、その頃は、まだ、
今のような「そば切り」は食べられていなかった。
だから、掻餅(かいもち)、つまり「そばがき」にして食べたのだね。

人々は謝太郎国昭に感謝して引き上げたそうだ。


●明けて正月、不景気だった博多の港に、
中国からの船が入って来た。
それも三艘も。

街はにわかに活気づき、
昔のにぎわいを一気に取り戻した。
喜びに沸く博多の街では、
誰それとなく、こんなことを言うようになった。

「世直しそばじゃ。
 謝太郎の掻餅じゃ。
 縁起直しの運そばじゃ。」

こうして、博多の人たちは、
謝太郎の業績を称え、
大晦日には、必ずそばを食べるようになった。
それを食べることによって「運」が開ける、
「運そば」としてね。

だから、博多では、「年越しそば」のことを、
「運そば」とか「福そば」とか呼ぶんだね。

これが全国に広まって、
「年越しそば」となったのだ、、、
というのが、数多くある、
「年越しそば」の縁起の一つだ。


●そばを振る舞った謝太郎国昭は、
元は中国の人だったが、
日本に帰化して、貿易を営み、
博多で一二を争う大金持ちとなった。

そしてこの人は、宗に留学して帰って来た、
円爾(えんに)こと、聖一国師(しょういちこくし)を援助し、
この承天寺を建てたのだ。

聖一国師は、最初に「国師」という称号を与えられた、
高名な禅僧。
当時の天皇や、鎌倉幕府の北条家など、
多くの人が、この人に帰依をしている。

さて、中国で修行した聖一国師は、
様々なものを持ち帰って、日本に伝えた。
その中でも有名なのが「饅頭(まんじゅう)」。
米麹を使った酒饅頭の作り方を伝えたらしい。

甘党のお坊さんだったのだろうか。
そうして、甘いものを食べれば欲しくなるのが、
「お茶」。

そのお茶も、この聖一国師が伝えたものと言われている。
故郷の静岡に蒔いた種が、やがて、その地に合うように育ち、
今の静岡茶の元になったのだと言う。


●また、この人は、
「うどん、そば」を日本に伝えたとされている。
要するに、「麺」という食べ物を伝えたようだ。
だから、承天寺には「饂飩蕎麦発祥之碑」が建てられている。

実際には、
「そば切り」が世の中に普及するのは、
ずっと後のことだから、
まず粉を作る技術が伝わったのかもしれない。
粉を作れたから、
大晦日に、そばを振る舞うことが出来たのだねえ。

とにかく、その偉〜いお坊さんである聖一国師をあがめ、
承天寺というお寺をつくったのが、
中国の人であった謝太郎国昭。
そうして、不況の中で、
食べ物もなかった人たちに、
当時は珍しかったそばの粉を配り、
「掻餅」として振る舞ったのだ。

たとえ、博多の大金持ちだとしても、
それだけのことをする「太っ腹」。
800年後まで、その話が伝わるという「豪気」。
すごい人がいたものだ。


●そんないわれはともかくとして、
大晦日に「年越しそば」を食べる習慣は、
全国に広まっているみたいだ。

そばを食べて、
「運」が向く、なんていい話。
このメールマガジンを、
最後まで呼んでいただいた皆様に、
ぜひ、いい「運」がやってきますように。
良いお年を!

あっ、そばを食べるのを、
お忘れにならないように、、、。