●長野では9月になると、
あちらこちらでそばの花が咲き始める。
最近は、赤い花もあるけれど、
一般的には白い花が、畑一面に咲くのだね。
山々を背景に、この花を見ると、
いかにも「そば処信州」という感じがするのだ。
さて、信州に生まれた有名な俳人の小林一茶。
若い時は江戸に暮らしたが、
晩年は信州に戻り、その暮らしに根ざした作品を残した。
一茶の俳句は、
それこそたくさんあるけれど、
その中で、そばの花にまつわる句を探してみよう。
●先ず、有名なのがこちら。
「そば時や月の信濃の善光寺」
「そば時」とは「そばの花の時」のこと。
月の光に照らされた、一面の白いそば畑と善光寺。
そんな信州の象徴的な風景を詠んだのだね。
「痩せ山に はつか咲けり 蕎麦の花」
そばの花は、実になるまで、
けっこう長い間咲いているから、
その様子を「はつか」と詠んだのだろう。
痩せ山とは、そば以外の作物ができないような土地なのだろうか。
● こんな句もある。
「信濃路やそばの白さもぞっとする」
あれあれ、今度は、
そばの花を「ぞっとする」白さだといっている。
確かに、そばの花の白さは際立っているけれど、
ぞっとするほどの白さなのだろうか。
一茶の暮らした柏原(今の信濃町)は、
長野県の一番北の新潟県境に近く、
たくさんの雪が降るところ。
50歳を過ぎてから故郷に戻ってきた一茶にとって、
この冬の暮らしは、たいへん厳しく感じられたようだ。
一面に白い花が咲くそば畑を見て、
ああ、また冬がやってくる、、、
ということを実感したのではないだろうか。
つまり、白いそばの花を見て、
つい雪を連想して「ぞっとする」ことになったという。
●今の世の中を見通したような句もある。
「国がらや田にも咲かせるそばの花」
そう、今の日本では、減反のあおりを受けて、
本来は稲を植えるべき田に、そばを植えているのだ。
というよりも、田で作られたそばの方が、
畑で作られるより多くなっているのが現実。
田の方が、機械で管理しやすいからね。
さすが一茶、200年後のことを、
しっかり予想していた、、、、、、はずがない。
じつは柏原では、標高が高いため、
その当時では、稲がよく育たなかった。
だから、仕方なしに田にそばを植えたのだね。
「国がら」というのは、そういう「米も満足に育たない山国」、
というような意味があるようだ。
●よく「そばの自慢はお里が知れる」という。
つまり、そばがたくさん穫れるところは、
逆に、米が穫れない貧しいところということ。
だから、うかつにそばの自慢をすると、
自分が貧しい土地の出身であることがばれてしまう、
ということになる。
それでも一茶は、それを承知で、
あえてそば自慢をしている。
「蕎麦国のたんを切りつつ月見かな」
江戸にいた時か、あるいはどこかへ行った時にだろうか、
月見の宴で、つい、蕎麦の自慢が飛び出してしまう。
たとえ貧しさを笑われても、
やはり、故郷はいとおしいものなのだね。
こんな句もある。
「そば所と人はいうなり赤とんぼ」
はたして「そば所」と呼ばれて褒められているものだろうか。
実は、そういう場所は、
厳しい生活という現実を背負っているわけだ。
そんなことを考えなくても、
この句は、白い蕎麦の花の上を、
赤とんぼが飛ぶという、
色彩豊かな秋の情景が目に浮かんでくるようだ。
●一茶という人は、継子(ままこ)でいじめられたり、
長い間遺産相続で争ったり、
子供達がみな幼くして亡くなるなど、
家庭的には不幸な生き方をしたそうだ。
でも、一度は江戸に出たとはいえど、
故郷をこよなく愛し続けたようだ。
「そばの花江戸のやつらがなに知って」
はははっ、いいなあ、好きだなあ、
こういう意地を張る一茶って。
同じそばの花を見ても、
きれいな句を作った芭蕉や蕪村とは、
全く違った目を持っていたんだね。
そんなそばの花が実を付けて、
さあ、新そばの季節。
一面に白い花の咲く、そば畑の風景を思い浮かべながら、
そばをお手繰りあれ。
●そばと遊び心
そばの相撲
●お客さまの中には、そばをお好きで、
ずいぶんとたくさん召し上がる方がいらっしゃる。
こんなに、食べられるかなあ、
と思って見ていても、
ちゃんと、お腹の中に入るので不思議だ。
いったいそばは、どのくらい食べれるものだろうか。
そんな、食べ比べは、昔からあったようだ。
例えば、落語の「そば清」。
そば好きの清兵衛さんは、
そば屋で何枚食べられるかを賭けて、
いつも、掛け金をいただいていく。
ところが、ある時、
今まで食べたことのない量を食べさせられる。
さすがに苦しくなった清兵衛さん、
信州で仕入れてきた、ある薬を使うのだ。
その薬と言うのが、実は、、、、、。
まあ、このように、大食いを自慢する人は、
いつの時代にもいるようだ。
●さて、時代は江戸時代中頃、
あるところで、「そばの相撲」が、
大勢の見物人の前で開かれた。
そば喰い自慢の二人、谷村氏と平岡氏の、
どちらの方が、たくさん食べれるかを競うものだった。
二人の前に、それぞれ、
一升以上のそばが盛られた大重箱が置かれ、
勝負は始まった。
それだけでも、かなりの量だ。
食べきれるだろうか。
大勢が見守るなか、
しかし、ふたりは、楽々とその重箱を空けてしまう。
驚いた見物人。
そうして、さらに、椀に盛ったそばを食べ始めたのだ。
さて、このあまりの勢いに、
どちらが勝つかと、楽しみにしていた見物人、
今度は、
そんなに食べて大丈夫なのかと心配になって来た。
二人が21椀づつ食べたところで、
双方とも充分に食べたという。
これ以上は、かえって興ざめになるので、
そばの相撲は、同じ量を食べて、
両者引き分けということになった。
やんやの喝采を浴びた両人。
●ところが、ある人が二人に尋ねた。
ちょうどそら豆ご飯が炊きあがっているが、
食べてみるかと。
ええっ、たっぷりのそばを食べたばかりに、
「そら豆ご飯」だなんて。
そうしたら、平岡氏が答える。
これは珍しい。いただきましょう。
そうして、大盛り二杯のそら豆ご飯を食べてしまったのだ。
人々は呆気にとられて、
肝を潰したそうだ。
そうして、ある人が言う。
そばの量は同じでも、そら豆ご飯を食べた分だけ、
平岡氏の勝ちだと。
人々は沸いたが、
すぐに反論があった。
これはそばの勝負なので、他のものは入れないほうがいい。
結局、そういう意見が多く、
この相撲は勝負なしと言うことになったそうだ。
でも、人々は、平岡氏の大きな胃袋に、
恐れをなしたそうだ。
●こういうそばの食べ比べは、
いまでも、各地で行われている。
長野でも、戸隠のそば祭りの時に、
そば喰いコンクールが行われていた。
でも、さまざまな事情があって、
数年前から取り止めになった。
そばを食べる量より、
そばの質を大切にしたいという、
そば屋の店主たちの思いがあるようだ。
そばの食べ比べでは有名な、
岩手の「わんこそば」。
小さなお椀に盛られたそばの、
食べた数を競うものだ。
盛岡市ではその名もすごい、
「全日本わんこそば選手権」なるものが、
毎年開かれている。
今までの最高が、時間無制限時代の(今は15分)、
559杯。
説明によると、10杯で、
軽めのせいろ一枚分ぐらいだというから、
せいろで55枚分。
え〜、え〜!!!!。
どこに入るのだろう。
●江戸時代に行われた「そばの相撲」。
実は、こんな後日談がある。
そばを食べたあと、そら豆ご飯を食べた平岡氏。
一、二年後に、内臓を痛めて、
長く患い、とうとう亡くなってしまったそうだ。
一方の、谷村氏。
好きなそばを食べながら長生きしたそうだ。
まあ、好きなものを、腹一杯食べるのもいいけれど、
ほどほどということも、
大切なようで。