●古い時代から、人々の信仰を集める善光寺。
この善光寺は、
人間ばかりではなく、
動物にも、篤い信心を持つものもいたそうだ。
本堂の西側にある経蔵の横に立っている灯籠は、
「むじな灯籠」と呼ばれている。
なんでも、下総の国(今の千葉県)から、
はるばるとやってきたムジナが、
人間に姿を変え、この灯籠を寄進したのだそうだ。
ところが、このムジナ、
かねがねの念願だった、
善光寺へのお参りを済ませてほっとしたのだろう、
泊まった宿坊の風呂で、つい、シッポをだしてしまった。
つまり、ムジナの姿を現してしまったのだ。
大騒ぎとなってしまったので、
そのまま、姿をくらましてしまったとか。
これと似たような話が、
東京のお寺に伝わっている。
キツネが僧の姿となって仏法を学んでいたのだが、
あるとき、寝ている時についシッポを見せてしまい、
本性がばれてしまったという。
このキツネが大のそば好きだった、、
というから、話がややっこしい。
●さてさて、今から時代をさかのぼること四百年近く、
江戸時代は初めの頃のお話。
江戸は、小石川というところに、
傳通院(でんつういん)という、徳川家ゆかりのお寺があった。
このお寺では、たくさんの若い僧たちが修行していたのだが、
その中で、抜きん出て優秀な学僧が居た。
その名を澤蔵司(たくぞうす)といい、
僅か三年余りで、浄土宗の奥義を修得するまでになった。
ところが、ある日、寝ている時に、
シッポを出してしまったのだ。
キツネの姿を同僚に見つけられ、
逃げ出した澤蔵司。
その夜、寺の和尚の夢枕に立ち、
「余は稲荷大明神であるぞよ。」
と正体をあかすのだ。
学業を授かったお礼に、
稲荷として寺を守護するとのことで、
和尚は社を建立した。
それが、澤蔵司(たくぞうす)稲荷として
今でも広く信仰を集めているとのこと。
●稲荷大明神が化けていたという、この澤蔵司は、
大のそば好きであったそうだ。
毎日のように傳通院の門前にあるそば屋に通っては、
そばを手繰っていたという。
ところが、ところが、
さすがにキツネの化けたもの。
そば屋のお勘定が、
いつの間にか、木の葉に変わっているのだ。
不思議に思ったそば屋が、
澤蔵司の後をつけると、
境内の椋(むく)の木のあたりで姿を消してしまった。
あとで、その澤蔵司が稲荷大明神の仮の姿と気づいて、
それから毎日必ず、初そばを稲荷に供えるようにしたのだと。
そのそば屋は稲荷のご利益があったのか、
今でも続いていて、
「稲荷蕎麦」を名乗っている。
果たして400年前に、
今のようなそばが食べられていたかどうか、、、
などと言う野暮な突っ込みは無しとして、
そば好きだった澤蔵司を祀る稲荷をお参りし、
そばを手繰ってみるのも面白いかもしれない。
●かんだたの店も、本堂からは少し遠いが、
善光寺の表参道の近くのある。
ひょっとしたら、
人間に姿を変えた、
信心深いムジナやキツネが、
善光寺の阿弥陀様をお参りして、
帰りにそばを食べに寄っているかもしれない。
いまのところ、
お金が葉っぱに変わるようなことは、
起こったことはないけれどね。
●そばの昔話
花魁(おいらん)の好んだ辛いそば汁
●紀伊国屋文左衛門 といえば、
江戸時代中頃に活躍した材木商人。
大もうけをして、派手に遊んだという話が伝えられている。
当時遊ぶといえば、江戸の吉原。
ここにはきれいな女性が揃い、
おいしい食べ物が、豊富にあったそうだ。
文左衛門は、そのころ二千人の遊女がいたといわれる、
この吉原の門を閉めさせ、
つまり、貸し切りにして、小判をばらまき、
豪華に遊んだので「お大尽」として、
江戸中の人々の評判となったそうだ。
さて、この紀伊国屋文左衛門 と張り合ったのが、
同じく材木商の、奈良茂こと奈良屋茂左衛門。
この人も、ずいぶんと派手な遊びをしたという。
こんな話が残っている。
ある時、奈良茂は、お気に入りの花魁(おいらん)に、
そばを二枚届けさせた。
一緒にいた友人が、
「おいおい、二枚だけということはないだろう。
よし、俺が、この郭中の人に、そばを振るまってやるよ。」
そう言って、そば屋にそばを注文した。
ところが、そば屋は売り切れだという。
そこで、他のそば屋をあたって見るが、
どこも、そばはもう無いという。
実は奈良茂、
周りのそば屋のそばをすべて買い取り、
たった二枚だけを、花魁に届けたのだ。
つまり、
その日、江戸でそばを食べられたのは、
その花魁だけ、、、、
、、ということをしたんだね。
●吉原は、江戸にそばを広まらせた、
大切な場所の一つだったそうだ。
江戸で、はじめて「そば屋」が出来たのも、
この吉原なのだそうだ。
値段はべらぼうに高かったが、
新しいもの好きの人々に受けたらしい。
その後、
花魁の出世の行事などに、
そばを振る舞う習慣ができたりして、
江戸っ子の中にそばがしみ込んでいったわけだ。
さて、
吉原の三浦屋というところに、
几帳(きちょう)という花魁がいたそうだ。
この花魁、めっぽうそば好き。
そうして、この几帳のおかげで、
江戸のそば汁は辛くなったとか。
●この花魁、なかなか我がまま、
いや侠気のあった人だったそうだ。
店のものが、
「花魁、永田町の野田様のお座敷でお呼びです。」
と迎えに来ても、
「あの人は、イヤでありんす。」
と、自分の目に叶う客でないと、
断ってしまったそうだ。
それでも、気に入った客には、
いろいろと世話を焼くので、とても人気が高かったとか。
たいへんなそば好きで、ちょっと間があると、
すぐ、そばを手繰っていたという。
客がいろいろと贈り物をしようとすると、
着物以外はそばを贈ってくれと頼んだそうだ。
そうして、贈られたそばは、
店の他の女性達や、
働く下女下男にまで振る舞ったそうだ。
時には、身銭を払って、
同じように、そばを振る舞うこともあったとか。
年季明けの几帳の支払いは、
半分はそば屋へのものだったそうだ。
こういう気っぷの良さは、
「はり」があるといって、
「いき」とともに江戸っ子に好まれたとか。
●さて、この花魁の几帳。
そばを食べる時には、
辛い汁を好んだのだそうだ。
折しも、関東で作られるようになった醤油が、
江戸に広く出回るようになった時代らしい。
それまでの江戸では、「下りもの」と呼ばれていた、
関西から運ばれてくる醤油が上物とされていたという。
ところが几帳は関西の醤油で作った汁を好まなかった。
そして、
「そばを食べるには、辛い汁に限る。」
といって、関東の醤油で作った江戸汁を使った。
なにしろ、名の通った花魁が言うことなので、
それが江戸っ子の中にも広まっていったようだ。
かくして、そのころの江戸では、
辛い汁のことを、几帳の名を取って「几帳汁」とよんだそうだ。
●この人気の花魁を身請けしたのは、
最初に紹介した紀伊国屋文左衛門との話。
文左衛門は後年になって事業に失敗し、
最後は質素な暮らしの中にいたというので、
几帳ははたして、好きなそばを食べていられたのかは、
わからないのだ。
今でも東京の老舗のそば屋の汁は、
かなり辛めだ。
そんな辛い汁に当たった時には、
かって「はり」のある花魁がいたことを、
思い出してみたりしてみてはいかが。
こんな風評被害があった。
○「困ったなあ。」
そば屋の太兵衛さんが渋い顔をしている。
「困ったなあ。」
やはりそば屋仲間の弥太郎さんも、
同じように眉間にしわを寄せて、相づちを打っている。
「どうしたものだろう。」
がらんとした店の中を見回しながら、
太兵衛さんが言うと、
「さあ、どうしたものだろう。」
と、弥太郎さんも、生気のない顔で答える。
隣り合わせで張り合って、
そば屋をやっていた二人だが、
今日は顔を突き合わせて相談している。
それほど、深刻な事態が起こっているわけだ。
場所は江戸、
時は安永二年(1773)のことだから、
今から240年前のお話となる。
二軒のそば屋が張り合っていたので、
かえって江戸中の評判となり、
客の切れることのなかった二人の店だった。
それが、
どうしたことか、両方の店ともに、
客がまったく来なくなってしまったのだ。
天気の加減かなと、はじめは思っていたのだが、
それが十日も続くと、そうも言っていられない。
奉公人たちは、手持ち無沙汰で、
うろうろしているばかりだ。
○そこへ、ひょいと入ってきたのが、
近くの小間物屋のご隠居。
「いやあ、ここも閑だねえ。
いまは、どこのそば屋も、まったく人の気配がないねえ。」
そういって、そばを頼んで手繰りあげる。
「まったく、ひどい噂が立っちまったものだ。
私なんざ、いつ死んでも構わないから、
こうしてそばを食べていられるがね。」
と、ご隠居さん。
そう、江戸の町に、
そばには毒があるとの噂が立ってしまったのだ。
それは、こんなものだ。
ーー綿の実を作った跡の畑で採れたそばに毒がある。
ーーそれを食べて死んだ人がいる。
ーー毒のあるのは、綿畑で作られてそばだが、それかどうかは、俺たちには判らない。
ーーだから、そばは食べない方がいい。
この噂は町中に広まり、
そばは、まったく食べられなくなってしまったのだ。
「それではこうしましょうか。」
太兵衛さんが切り出す。
「表に『綿畑で採れたそばは使っておりません』と、
張り紙を出しましょうか。」
弥太郎さんもそれがいい、ということで、
二店揃って、店先に張り紙をだした。
それでも、一向に効き目はなかったという。
ところが、「人の噂も七十五日」という言葉がある。
太兵衛さんと弥太郎さんが、「困った、困った。」を繰り返しているうちに、
ぼちぼちと、そばを食べる人が出てきた。
そして、三ヵ月もすると、
元の通りの繁盛となった。
ああ、よかったと、
胸を撫で下ろしたそば屋の太兵衛さんと弥太郎さん。
根拠のない噂は、
やっぱり、根を張らないものなのだ。
ところが、この噂、このままでは終わらなかったのだ、、、、。
○「困ったなあ。」
太兵衛さんの孫の小兵衛さんが渋い顔をしている。
「困ったなあ。」
そば屋仲間の、弥太郎さんの孫の弥三郎さんも、
眉間にしわを寄せている。
時は文化十年(1813)。
そば屋が、あらぬ噂に惑わされたその時から、
もう40年も経っている。
隣同士で張り合っていた二軒のそば屋は、
双方とも孫の代となっていた。
そして、またもや、
そばに毒があるという噂が、
江戸の町に広まったのだ。
そして、そば屋に客が寄り付かなくなった。
今度の噂はこんなものだ。
ーー田螺(たにし)の肥やしで栽培したそばに大毒がある。
ーーそのそばを食べて死んだ人が何人もいる。
ーーどれが田螺の肥やしで作ったそばか判らない。
ーーだから、そばは食べない方がいい。
「田螺というのは、田んぼにいるものだなあ。
田で作られたそばは、
山の畑で作られたそばに比べて味が落ちる。
それをこじつけて、誰かがこんな噂を流したのではないかね。」
太兵衛さんは弥三郎さんにそう言う。
「そうだ、そうだ、そうに違いない。
でも、困ったものだ。」
○そこへ、ひょいと入ってきたのが、
近くの小間物屋のご隠居。
「いやあ、ここも閑だねえ。
いまは、どこのそば屋も、まったく人の気配がないねえ。」
そう言って、そばを頼んで手繰りあげる。
「そう言えば、じい様が言っていたっけ。
昔も、そばに毒があるという噂が流れて、
そば屋さんは大いに困ったそうだ。
ところが、三ヶ月もすれば、そんな噂も忘れられて、
元に戻ったって。」
そのご隠居の言葉に、
顔を見合わせる小兵衛と弥三郎。
そう、そんな話を、
若い頃にじい様から聞いたことがある。
それではと、
「田螺(たにし)の肥やしで使ったそばは、
扱っておりません。」
と張り紙を出して、じっと我慢することにした。
ところが、
この時は、
二ヶ月経っても、
三ヶ月経っても、
そば屋に客は戻らなかった。
ついには、奉公人に暇を出し、
店仕舞いしたり、休業するそば屋が出始めたのだ。
これには奉行所も動き出した。
江戸の有名な医者に、
そばに毒がある根拠を問いただしたが、
医者は返事が出来なかったそうだ。
どのような内容か判らないが、
奉行所が「町触」を出したというから、
お上も放っておけなかったのだろう。
しかし、やっぱり人の噂である。
やがて「新そば」の張り紙がかかる頃になって、
ぽつりぽつりと、お客の姿が見えるようになった。
年の暮れになると、
威勢のいい江戸っ子の啖呵(たんか)が、
店の中を飛び回るようになった。
その姿を見て、
ほっと、胸を撫で下ろした小兵衛と弥三郎。
年が明ければ、
前の年の噂はどこへやら、
すっかり、元の通り、そば屋は繁盛したという。
この噂の真相は、
はっきりと判らないまま、
どこかへ消えてしまったようだ。
○情報の少なかった江戸時代、
今から200年前ごろは、
こんな噂で、そば屋は苦労をしていたのだねえ。
情報の発達した今の世の中では、
こんなことは、
まさか、、、、、、、
起こりませんよね?
いや、そうとも言えないかも。
どんな時でも、
胸を張って安心だといえるような、
そんな「そば」を作っていかなくては。
「運そば」は博多の街から
●またまた、昔々の物語。
今回は、「年越しそば」の縁起にまつわるエピソード。
へえ、博多では、「年越しそば」のことを、
「運そば」とか「福そば」とか呼ぶんだね。
さて、今からおよそ800年近く前のこと、
というと、鎌倉時代半ばの頃のお話。
その年、九州は博多の街は、
疫病が流行り、恐ろしいほどの不景気に落ち込んだ。
もう正月だと言うのに、人々は食べるものもない有り様。
これでは、新しい年への希望など持てそうもない。
いよいよ明日は新年を迎えると言う日に、人々の間を、
「承天寺(しょうてんじ)にお出で、承天寺にお出で。」
と触れ回るものがある。
さて、食べるに困った人たちが、
何事かと承天寺に駆けつけたところ、
山と積まれた袋の中から、
白っぽい粉を掬いだして分け与えてくれている。
「これは、いったい何なんだい。」
「食べるものらしいけれど、どうやって喰うんだ。」
と戸惑う人たち。
そこで、姿を現したのが、
地元の豪商、謝太郎国昭(しゃたろうくにあき)。
「皆さん、これは世直しそばです。
お湯と塩を入れて、かき回して召し上がれ。」
さて、その頃は、まだ、
今のような「そば切り」は食べられていなかった。
だから、掻餅(かいもち)、つまり「そばがき」にして食べたのだね。
人々は謝太郎国昭に感謝して引き上げたそうだ。
●明けて正月、不景気だった博多の港に、
中国からの船が入って来た。
それも三艘も。
街はにわかに活気づき、
昔のにぎわいを一気に取り戻した。
喜びに沸く博多の街では、
誰それとなく、こんなことを言うようになった。
「世直しそばじゃ。
謝太郎の掻餅じゃ。
縁起直しの運そばじゃ。」
こうして、博多の人たちは、
謝太郎の業績を称え、
大晦日には、必ずそばを食べるようになった。
それを食べることによって「運」が開ける、
「運そば」としてね。
だから、博多では、「年越しそば」のことを、
「運そば」とか「福そば」とか呼ぶんだね。
これが全国に広まって、
「年越しそば」となったのだ、、、
というのが、数多くある、
「年越しそば」の縁起の一つだ。
●そばを振る舞った謝太郎国昭は、
元は中国の人だったが、
日本に帰化して、貿易を営み、
博多で一二を争う大金持ちとなった。
そしてこの人は、宗に留学して帰って来た、
円爾(えんに)こと、聖一国師(しょういちこくし)を援助し、
この承天寺を建てたのだ。
聖一国師は、最初に「国師」という称号を与えられた、
高名な禅僧。
当時の天皇や、鎌倉幕府の北条家など、
多くの人が、この人に帰依をしている。
さて、中国で修行した聖一国師は、
様々なものを持ち帰って、日本に伝えた。
その中でも有名なのが「饅頭(まんじゅう)」。
米麹を使った酒饅頭の作り方を伝えたらしい。
甘党のお坊さんだったのだろうか。
そうして、甘いものを食べれば欲しくなるのが、
「お茶」。
そのお茶も、この聖一国師が伝えたものと言われている。
故郷の静岡に蒔いた種が、やがて、その地に合うように育ち、
今の静岡茶の元になったのだと言う。
●また、この人は、
「うどん、そば」を日本に伝えたとされている。
要するに、「麺」という食べ物を伝えたようだ。
だから、承天寺には「饂飩蕎麦発祥之碑」が建てられている。
実際には、
「そば切り」が世の中に普及するのは、
ずっと後のことだから、
まず粉を作る技術が伝わったのかもしれない。
粉を作れたから、
大晦日に、そばを振る舞うことが出来たのだねえ。
とにかく、その偉〜いお坊さんである聖一国師をあがめ、
承天寺というお寺をつくったのが、
中国の人であった謝太郎国昭。
そうして、不況の中で、
食べ物もなかった人たちに、
当時は珍しかったそばの粉を配り、
「掻餅」として振る舞ったのだ。
たとえ、博多の大金持ちだとしても、
それだけのことをする「太っ腹」。
800年後まで、その話が伝わるという「豪気」。
すごい人がいたものだ。
●そんないわれはともかくとして、
大晦日に「年越しそば」を食べる習慣は、
全国に広まっているみたいだ。
そばを食べて、
「運」が向く、なんていい話。
このメールマガジンを、
最後まで呼んでいただいた皆様に、
ぜひ、いい「運」がやってきますように。
良いお年を!
あっ、そばを食べるのを、
お忘れにならないように、、、。