お客様に、店の名前の「かんだた」について、よく尋ねられます。
そうです、「かんだた」とは、芥川龍之介の小説「蜘蛛(くも)の糸」に出てくる、登場人物の名前です。
地獄で苦しんでいる「かんだた」は、様々な罪を犯してきた悪人です。その姿を見たお釈迦様は、極楽から蜘蛛の糸を垂らします。「かんだた」が生きている時に、蜘蛛を殺さずにいた事があったからです。
「かんだた」はその蜘蛛の糸を手繰って、極楽に登っていこうとします。
でも、途中で悪い心を持ってしまうのですね。あとは、皆さんご存知の通りの結果となります。この話は、教科書にも載ったこともあり、皆さん、筋を思い浮かべられるようです。でも、登場人物の名まで覚えておられる方は少ないですね。
開店の計画を立てるにあたって、店の名前を、いろいろと考えました。
まずは、そば屋にふさわしく、それでいて、他には絶対に付けられないような名前にしようと思っていました。よく、自分の苗字を店名にする方もいらっしゃいます。珍しい名前であればそれでいいのでしょうが、私の名前は、ごくありふれています。「そば処 なかむら」では、なにやら、スーパーの店先に積み上げられた特売の野菜みたいです。
そうではなく、私の生き方とか、考え方を反映できる名前はないかなと、思案していました。最初に思いついたのは「禅智内供(ぜんちないぐ)」という名前です。皆さん、ご存じですか。
いや、知らないですよね。周りの人に聞いても、誰も解らないのです。これは、やはり芥川の小説「鼻」の主人公のお坊さんの名前なのです。鼻の大きなお坊さんが、鼻を小さくしようとして、いろいろと努力をしてみる話です。結局、元に戻ってほっとするのですが。そばも、料理も、あるがままに、という意味で、こんな店名もいいかなと思いました。
でも、誰も意味を知りません。ましてや、気軽に入っていただくそば屋としては、少々重々しすぎる名前ようです。
そこで「かんだた」を思い出しました。なぜ、この名を覚えていたかというと、中学生の時に、議論をしたことがあったからです。
班ごとに芥川の小説を読んで解説してみる、という国語の授業がありました。その時に私の班に割り当てられたのが「蜘蛛の糸」でした。
他の人はこんなことを言っていました。「自分だけ極楽へ行こうとした、かんだたの心が悪い。」
でも、生意気盛りで、だいぶひねくれていた私は、こんなことを言ったのです。「この小説のお釈迦様は、ずるい!」こともあろうに、お釈迦様を悪者にしてしまったのです。
なぜかといえば。「お釈迦様は、かんだたが悪い心を起こすことを、最初から知っていたのだ。それなのに、あえて、蜘蛛の糸を垂らし、かんだたの心を試したのだ。だから、ずるい!」そんな議論をしたことがあったので「かんだた」の名を覚えていたのですね。
そばは、蜘蛛の糸ほどではないが、細く長いものです。そして、しっかりとした気持ちで作らなければ、切れてしまいます。つまり、そばは「細くて切れやすい」ということで、この話にかけさせていただき、「かんだた」という名前をいただいた訳です。
「かんだた」は地獄に居る極悪人の名前です。でも、それは、私自身かもしれません。若い頃は、ずいぶんと好きなことをして、他の人に迷惑をかけてきました。細く切れやすいそばに頼って、悪心を起こさず、すこしでも上に向かって登って行ければと思います。
かんだた店主 中村和三